玻璃の器
 

 真昼に柾目と弘徽殿の皇子が姿を消した出来事は、あっというまに都中に知れ渡った。
 若くして死んだ濃子が弘徽殿の皇子を連れて行ったのだという噂と、神隠しにあったのだという噂が同時に流れた。行忠邸に着いた牛車が空だと知った行忠の怒りは凄まじく、すぐに柾目と赤子の行方を追う検非違使が派遣された。
 濃子に続いて弘徽殿の皇子をなくした惟彰は、昼の御座で政務を取った後、夜になると夜の御殿に引きこもった。一人でただ一心に、皇子の身を案じて仏に祈っているようだった。惟彰が食事も睡眠もほとんど取っていないことを知った馨君は、陰陽師の助言に背いて久しぶりに参内し、夜御殿に向かった。
 女房に案内されて萩戸の手前まで来ると、春宮らしく女房を何人か従えて水良がやってくるのが見えた。馨君が簀子に出て膝をつくと、水良はよいから立ちなさいと馨君に声をかけた。二度促されて馨君が立ち上がると、水良は目を伏せ、そなたも主上の所かと言った。
「はい。あまりお召し上がりになっていないと伺ったので、主上のお好きなものをお持ちしました」
「そうか。ありがとう。私も兄上と共に弘徽殿の皇子の無事を祈ろうと思って来たのだが…そなたの方が、兄上は喜ばれるだろうか」
 低い感情を抑えた声で言った水良に、馨君はドキッとして思わず水良を見つめた。いいえ、そのようなことは。言葉を濁して、馨君は吸い寄せられるように水良を見つめた。
 水良。
 …俺は、このような時にもお前のことを考えてしまう。ほんの少しでもこんな風に会えて、嬉しいとさえ思ってる。忠臣などとおこがましい。俺の心を見たら、水良もきっと呆れてしまうだろう。
 こんな…弘徽殿の皇子が失踪されて、惟彰さまがご心痛を重ねられている時に。
 馨君が目を伏せると、水良はどちらが先に行く?と尋ねた。顔を上げた馨君がどうぞお先にと言うと、水良はかすかに笑みを見せ、俺がお前の先触れに行こうと囁いた。
 水良が夜の御殿に入ってしばらくすると、女房が呼びに来て、中将さまもどうぞと告げた。馨君が女房に下がるように言ってから夜の御殿に入ると、小さな仏像に向かって手を合わせていた惟彰が気づいて顔を上げた。私にも拝ませて下さい。馨君が言うと、惟彰は頷いて仏像の前から移動した。
 どうか、どうか皇子さまが無事に戻られますように。
 仏さま…どうかこの優しい方が悲しまずに済むように、お願いします。
 私がお願いできるようなことではないかもしれませんが…どうか、この身と引き換えにしてでも、皇子さまを主上の元へ返して下さいませ。目を閉じて念じると、馨君はじわりと目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭った。この方に本当に必要ならば、私の身など…いくらでも捧げよう。何度も手で潤んだ目を拭っていると、惟彰がありがとうと低い声で囁いた。
「羅城門を出た所までは分かっているのだが、そこからの足取りが全くつかめないのだ。だが、やはり盗賊などにさらわれたのではなく、式部卿宮が連れ去ったらしい。赤子を布にくるんで抱いた公達が、一人馬を走らせているのを見た者が何人もいるのだ」
「式部卿宮さまは、なぜ弘徽殿の皇子さまを」
「分からぬ。自分の所でも子が生まれ、式部卿宮となったばかり…鬼の仕業としか思えぬ」
「…」
 横で聞いていた水良が、目を伏せて小さく息をついた。柾目、昔から何を考えているのか分からない男だったが。目を伏せて憂いた表情の水良に気づくと、惟彰はふいに口を開いた。
「やはり私が御座に就いているのが、いけないのだろうか」
「主上、何を仰るのです」
 馨君が驚いて腰を浮かすと、惟彰は水良をジッと見つめて言葉を続けた。
「父上の頃は水が溢れることもなく、また枯れることもなかったが…私の御代になってから、日照りが過ぎて不作となったであろう。公卿たちはみな私を徳のある主上と褒めたたえるが…本当は、私が主上となったゆえ、濃子は死に、皇子は連れ去られたのでは」
「兄上! 決してそのようなことはありませんぞ!! 兄上が主上となられてから、それまで止まっていた方々の灌漑工事も進められたではありませぬか。あれがなければ、飢饉で苦しむ民がもっと増えたでしょう…兄上だったからこそ、被害を最小限に食い止められたのです」
「主上、濃子さまは主上を恨んではおられません。皇子さまも然り…決して主上のせいなどではございません」
 水良の言葉に馨君が重ねて言うと、惟彰は目を伏せ、額を押さえた。私の思う通りになど一つもならぬ。苦しげに呟くと、惟彰は顔を上げ、水良と馨君をジッと見つめた。
 水良は私の弟宮…昔からずっと、可愛がってきた我が弟。
 馨君…なぜ水良を選んだのだ。あのことが、私の心からどうしても離れぬ。萩の宮姫を娶った今でも…こうしているとやはり水良を愛しているのではと、邪推してしまう。こんな時だというのに。
 そなたたちが私を思ってくれていることは、分かっている…分かっているのだ。
「主上…どうか、お気を確かにお持ち下さいませ。今も検非違使が皇子さまの行方を追っております。きっと無事に見つかりますよ」
「そうですよ、兄上。赤子を連れていれば嫌でも目立ちます。馬に乗っていたとて、行方はきっとすぐに分かります」
 馨君と水良が言うと、惟彰は顔を上げて力なく微笑んだ。そうだろうか。そう呟いた惟彰の手をそっと握ると、水良は必ずと力強い声で答えた。

 
(c)渡辺キリ