主上による弘徽殿の供養が大々的に行われ、兼長を初め公卿や殿上人たちが揃って参列したが、その中に馨君の姿はなかった。
三条邸に引きこもっている馨君には、主上直々の文が矢継ぎ早に届いたけれど、返ってくるのは体調を崩しましたのでという言い訳めいた馨君からの文ばかりで、弘徽殿も亡くなり、馨君も姿を見せない内裏はまるで花が枯れたかのように沈んでいた。
いっこうに姿を見せない馨君の代わりに、夜御殿には藤壺女御が毎夜召された。まだ皇子もいない内から近々藤壺が中宮として立后するのではという噂が囁かれ、行忠はまだ弘徽殿に皇子がいるのにと火を噴かんばかりに憤った。
弘徽殿の供養が済むと、行忠は早く皇子を引き取りたいと惟彰に訴えるようになった。馨君が出仕しない今、皇子まで内裏からいなくなってはと惟彰は渋ったが、北の方が寂しさのあまり臥せっているとまで言われると承諾せざるを得ず、二月も終わろうとしている風の暖かな日、弘徽殿の皇子が内裏から行忠邸へ移ることになった。
初めは女房が抱き、行忠が同乗して行く予定だったのが、行忠は共に行かぬ方が皇子の未来が開けるとの陰陽師の助言で、柾目が付き添うことになった。女房が抱いていざ牛車に乗ろうとすると、赤子はけたたましく鳴き始めた。
「それでは、私が抱いて参りましょう」
忙しく立ち回る女房たちの中、柾目が行忠に言った。私の甥でもありますので。にこりと笑って言った柾目に、行忠はよろしく頼みますぞと柾目の手を握った。柾目が赤子を抱いて牛車に乗り込むと、しばらくして随身たちが付き添う牛車はゴトリと音を鳴らして動き出した。
小さな…私の子。
ようやく抱くことができた、我が子よ。目を細めて柾目は飽かず弘徽殿の皇子の顔を眺めた。昔、この子は主上の子ゆえゆめゆめ忘れぬようと濃子に言われた時、つかまれた膝がなぜか数日前から赤く腫れていた。痛みを隠して常のように振る舞うと、柾目は柔らかな赤子の頬に自分の頬を押しつけた。
二度と離すまいぞ。
濃子…そなたと私の子だ。
赤子を抱いて嬉しそうに微笑んだ柾目の膝が、ズキンと痛んだ。クッと眉をひそめて柾目が目を開くと、ふいにガタンと大きく牛車が傾いだ。外では随身や牛飼い童たちが騒いでいた。何事だ。柾目が中から声をかけると、随身の一人が戻って来て答えた。
「式部卿宮さま、申し訳ございません。あちらの牛車が避けきれずにこちらとぶつかりまして、牛が驚いて…」
「皇子さまが乗っておるのだ。慎重に行かねば…」
「申し訳ありません!」
随身は青ざめて、ずれてしまった軛を直している牛飼い童に早く直せと叱りつけた。随身たちはみんな前に集まっているようだった。柾目の腕の中に抱かれた赤子は、騒ぎにも気づかず静かに眠っていた。
柾目は牛車の後ろの簾を上げた。
大路には人々が忙しそうに行き交い、牛車同士の諍いも日常茶飯事で誰もこちらに気を止めている様子はなかった。もう一度、牛車の前に視線をやると、柾目は赤子を抱いたまま牛車の後ろから外へ飛び下りた。
誰も異変には気づかなかった。
しばらくして空の牛車は再び動き出した。式部卿宮さま、もうすぐ行忠さまのお邸へ着きますので。随身がそう声をかけた時にはすでに柾目の姿はどこにもなかった。
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