胸が痛い。
目を閉じたままなのに、目の前に立つ女の姿が見えた。息苦しくて手を伸ばし、自分の体に蛇が巻き付いているのに気づいた。ここはどこだ…恐ろしさに馨君が息をひそめると、女は馨君の頬を両手で挟んでその顔を覗き込んだ。
女は美しかった。
濃姫さま。そう呼んだ声はかすれて届かなかった。暗闇にぬらぬらと蛇が馨君の体に絡みつき、身動きが取れないまま馨君は苦しげに眉を寄せた。息ができない。
憎らしや、左大臣家の一の君。
地獄の底から響くようなゾッとするような冷たい声で、濃子は呟いた。
わらわが死して尚、主上の心を我がものにするか。
濃子の言葉に、馨君は手を伸ばしてギュッと拳を握りしめた。お許し下さいませ、濃姫さま。私は…私には他に愛する人がおりまする。主上と心を交わしたことはありませぬ。
なれど、主上はそなたに心を奪われておるではないか。
馨君の頬を叩いて、濃子は怒鳴りつけた。そなた、実の妹までも欺くか。芳姫がこのことを知れば、どのように思うか見物よ。勝ち誇ったように笑った濃子の姿は、すでに鬼に変化していた。いつ告げようか、主上が本当に心より愛しておるのはそなた一人と。
「おやめ下さりませ!」
自分の声に目が覚めて、馨君は飛び起きた。背中にびっしょりと冷や汗をかいていた。大きく何度も息をついてギュッと衾を握りしめると、馨君は額を押さえてギュッと目を閉じた。
今、何か恐ろしい夢を。
誰かが何か言っていた。芳姫に告げようぞと。一体何を…。ふうっと長い息を吐いた馨君に、様子がおかしいことに気づいた女房が控えめにいかがいたしましたかと尋ねた。
「少し夢見が悪かったようだ。こんな夜中に申し訳ないが、陰陽師を呼んでくれ」
「かしこまりました」
そう言って女房は妻戸から出て行った。誰かが私を恨んでおられる。誰かが…目を伏せて自分の膝に顔を埋めると、馨君はじわりと涙の浮かんだ目尻を袖で拭った。
何度も思いきろうとしても、水良に会えば俺の心が引き戻されるように、主上も俺に会うたびに心が引き戻されるのかもしれない。
濃姫、あなたが。しばらくジッとしているとふいに女房が妻戸を開けて、陰陽師が参りましたと告げた。馨君が入ってくれと言うと、三条邸で兼長が懇意にしている陰陽師が入ってきて廂に平伏した。
「お呼びと伺いましたが」
「ああ…少し夢が悪かったので、見てもらえないかと」
馨君が言うと、女房が袿を持って来て馨君に羽織らせた。灯台の明かりの元、ジッと馨君の顔を見つめていた陰陽師は、ふいにお人払いをと馨君に告げた。
女房が出て行き二人きりになると、馨君は陰陽師を見つめて尋ねた。
「いかがした。何か分かるか」
「恐れながら、強い陰の気が取り巻いておられます」
「…どうすればよい」
やはり濃姫さまがおられるのだろうか。馨君が低い声で尋ねると、陰陽師はしばらく黙り込んでから答えた。
「内裏の清涼殿より丑寅の方角へはしばらくお近づきになられませぬよう。お命を縮めます。お亡くなりになられた方のご供養を、二の君さまを通じて主上に奏上なされませ。馨君さまご自身は、弥生まで三条邸にお籠りになられた方がようございます。西の対ではなく、父上母上のおられる寝殿で」
「分かった…それだけか」
馨君が尋ねると、陰陽師は口ごもった後、平伏して答えた。
「どうか、思いとどまられますよう」
「…え?」
驚いて馨君が尋ね返すと、陰陽師はゆめゆめご供養をお忘れなさいますなと言って頭を下げ、また妻戸から外に出て行った。背中を冷たい汗が流れた。やはり私を…恨んでおられるのだろうか、濃姫さまは。きゅっと衾の裾を握りしめて、馨君は大きく呼吸を繰り返した。
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