三月に入ると、馨君が再び参内するようになった。
それでもどこか沈みがちで、以前のような笑顔を見せなくなった馨君を見て、同僚や殿上人はやはり主上の皇子が見つからない心痛に苦しんでいるのだろうと話した。
参内してすぐに紫宸殿の昼の御前に平伏した馨君に、惟彰は御帳台から馨君に声をかけた。
「中将、左兵衛佐と共に皇子のために祈ってくれたそうだな。左兵衛佐は出仕してすぐ皇子探索の指揮を任されたとか」
「はい…しかし、力及ばず申し訳ございません」
馨君が平伏すると、惟彰は目を細めた。そなたたちにはいつも世話をかけるな。そう言って、惟彰は柔らかな視線で馨君を見つめた。
近衛中将としての報告を済ませ、それから御前を下がると、馨君はそのまま梨壺に向かった。四の姫から届いた文と贈り物の礼をするためだった。馨君が女房に先触れを頼むと、梨壺の女房から水良が四の姫の元を訪れていることを教えられた。馨君がほんの少し逡巡すると、先触れに出した女房が戻ってきておいでになられますようにと告げた。
「…お久しぶりにございます」
馨君が孫廂に平伏して言うと、御簾を下ろした中から水良の声がした。
「皇子のために寺に籠って祈っておったそうだな。よくやってくれた」
「いいえ…それぐらいしか術のない私が、歯がゆいばかりで」
「中将どの、お文は届きましたでしょうかと四の姫さまが仰っておいでです」
中にいた四の姫付きの女房が、馨君に声をかけた。馨君がニコニコと微笑みながら読みましたよと答えると、四の姫は几帳の向こうでホッと息をついた。その時、ふいに御簾が揺れて中から水良が姿を見せ、廂に座を設けさせた。久しぶりに見る姿にドキンとして馨君が目を伏せると、四の姫は自分でお返事をするわと女房に言ってから馨君に話しかけた。
「兄上がいらっしゃらないので、寂しく思っておりました。また内裏でこうして兄上の姿を見られて嬉しゅうございます」
「そうですか、ありがとうございます。梨壺さまはなかなか外にはお出になれない身分ゆえ…これからはできるだけ、こちらにも伺うように気をつけます」
馨君が笑ったまま答えると、水良は斜めからジッと馨君を見つめた。春宮さまもお元気そうで何よりです。そう言った馨君に、水良はただ黙って頷いた。
「梨壺さま、今年は皇子さまが見つかるまでは宴なども慎まねばなりませんが…藤壺にて藤を眺める小宴などして、主上にもおいでいただきますよう申し上げました。春宮さま、梨壺さま揃っておいでいただければと思っております」
「けれど私…そういった綺羅綺羅しい所は、少し苦手ですの」
「何を仰います。梨壺さまこそ、次代の内裏を支える女御さまとして立派なお姿を見せていただかねばなりません。苦手と言わず、どうぞおいで下さいませ」
「しかし、私は四の姫にそのような無理強いをしたくないのだ」
馨君の言葉を聞いて、ふいに水良が口を挟んだ。驚いて馨君がスッと笑みを引くと、水良は眉をわずかにひそめて馨君を見ていた。
「四の姫はまだまだ幼く、内裏での生活にもいまだ慣れておらぬ所もある。中将がそう言ってくれるのは親心と分かっておるが、もう少しだけ猶予をもらえまいか」
「春宮さま」
馨君の声が、固く響いた。
簀子の端に控えていた朝顔が、中将さまは梨壺さまのためを思って仰っておいでなのでございますとゆっくり柔らかな声で言った。ジッと自分を見ている馨君から視線をわずかにそらして、水良はうん、分かってるよと答えて両腕を組んだ。言葉にならずに青ざめたまま、馨君はふいにその場に平伏した。失礼いたします。ようやく絞り出すような声で言って、馨君は立ち上がり、元来た道を戻り出した。
「え…あ、馨君!」
今度は水良の方が驚いて立ち上がり、慌てて馨君を追った。春宮さま! そう言って追いかけようとした若い女房を制して、朝顔が後を追った。早足で随分向こうの方まで行ってしまった馨君の名を呼ぶと、水良はようやく追いついて馨君の手をつかんだ。
「馨君、どうしたんだ」
そう言って顔を覗き込み、ドキッとして思わず手を離す。
俯いた馨君は、ふっくらとした柔らかそうな唇をキュッと噛み締め、今にも泣き出しそうな潤んだ目をしていた。言葉をなくして水良がジッとその横顔を見ると、馨君は顔を上げ、水良をにらんだ。
顔を真っ赤にして。
狼狽して水良が馨君…と呟くと同時に、水良の後ろに朝顔が追いついて声をかけようと顔を上げた。それにも気づかず、馨君は水良をにらみ上げたまま大きな目からボロボロと大粒の涙を落とした。
頬に降り掛かって、胸に、足下に落ちて。
「…どうしたんだよ」
小さな声で水良が尋ねると、馨君は水良の腕を強くつかんだ。
「俺の前で」
「…何」
「俺の前であの者の肩を持つのか。それが…どれほど惨めなことか、お前には分かるまい」
それだけ言うと馨君は手を離し、身を翻してそこを立ち去った。呆然としたまま、追いかけることもできずに水良は馨君の後ろ姿を見送った。それを水良の後ろから同じように見つめると、朝顔は自分の唐衣の袖をぎゅうと強く握りしめていることに気づいた。
それほどまでに。
中将さま、あなたは春宮さまを。
どこか心の底に、冷たい何かが走った。分からないといった様子で口元を押さえた水良の背中を、座った目で見据えた。室に迎えた萩の宮姫さまよりも…そして、主上よりも、春宮さまを愛していらっしゃると言うの。
「あ…朝顔」
呆然としたまま振り向いて朝顔に気づくと、水良は名を呼んで四の姫の元に歩き出した。中将どのは急用ができたそうだ。そう言った水良の後ろをついて歩くと、朝顔ははいとただ答えて口を閉ざした。
|