玻璃の器
 

 宿直は馨君だと聞いていた。
 あんな態度を取られて…眠れる訳がないじゃないか。梨壺の寝所で何度も寝返りを打つと、水良は自分の腕を枕にしてため息を吐き出した。あんな顔を…俺は何度させただろう。
 何度も…何度も。
 俺が愛しているのはお前一人だと、どうしてそう告げることができないのか。
 薄暗い中で身を起こすと、水良は控えているはずの女房を呼んだ。お呼びでございますか。そう言った若い女房に、水良は直衣を出すように言った。
「どうしても眠れぬゆえ、少し歩いてくる」
「しかし、危のうございます。舎人を呼んで参りましょう」
「よい。すぐに戻るから…私がそぞろ歩いていることは、誰にも言うな」
 そう言って、水良は女房に直衣を着つけさせた。真夜中のことだ、烏帽子で構わん。小声でそう言って烏帽子を整えさせると、扇を懐に入れて水良は妻戸から外に出た。
 左近衛の宿直はもう終わっているはず。
 月の光で薄明るい庭へチラリと視線を向けると、水良はスタスタと早足で歩いた。渡殿を歩くと、わずかに板がきしんだ。これではまるで、夜這いをかける男のようだな。苦笑して、それから水良は周りを見回した。
 中将となった今は滝口の陣だけではなく、芳姫のいる藤壺、兼長の宿直所にもいるはずだ。
 兼長がいなければよいが…。考えながらそっと歩いて、水良は人に見つからないように藤壺へ向かった。妻戸には女房が控えていて、水良の気配に気づいて鋭い声でどちらのお方でございますと声をかけた。
「私だ。用があるのは藤壺ではない。中将だ」
 水良が顔を見せるようにして言うと、女房は息も止まらんばかりに驚いて、慌ててその場に平伏した。春宮さま、このような夜更けに伴もつけずに。青ざめてそう言った女房に、私がいらぬと言ったのだと答えて水良は妻戸を開けるよう告げた。
「藤壺さまを碁のお相手にと主上が清涼殿へお召しにございます。中将さまにお伺いをたてて参りますので…」
「余計なことをするな。中将に入ってもよいかなどと尋ねたら、すぐに梨壺へ戻れの一点張りだろう」
 笑いを堪えながらそう言って、水良は妻戸の内にいる女房にも声を開けた。戸を開けよ。そう言った水良の声に気づいたのか、中から年嵩の女房が慌てて妻戸を開け、その場に平伏した。
「どうか、できるだけ早く梨壺へお戻りを」
「分かっている。眠れなかったので…中将と語らおうと思っただけだ。そなたたち少し下がってくれ」
 水良が言うと、女房たちは外に出て、水良が中に入るのと入れ替わりに妻戸を閉じた。中はしんと静まり返っていて、灯台の光が揺らめいていた。明かりをつけないと眠れないのは、相変わらずなんだな。普段、大人っぽく振る舞っている馨君の昔と変わらない子供っぽさに笑いを堪えると、そのまま忍び足で母屋へ入り、水良は黙ったまま馨君を見下ろした。
 馨君は文を広げたまま、脇息に体を預けて眠っていた。
 肩から袿をかけ、烏帽子をかぶっていた。内裏の見回りを終え、文を見ている内に眠ってしまったのだろうか。考えながら近づくと、ふとその文に気づいて水良は顔をしかめた。
 これは…萩の宮姫からの文か。
 膝に乗せたままの文は、薄紙に重ねた藤の色目も美しく、宮姫らしい上品さがただよっていた。そっと起こさないように文を引き抜いて文面に視線を走らせると、水良は驚いて息をのんだ。
 それは、初めから終わりまでずっと萩の宮姫の恨み言で、他に愛している姫がいるのは内裏かそれとも下条辺りなのかと馨君を責めていた。馨君の身分なら、何人もの姫を娶っても当たり前で、たとえそうなっても内親王でも娶らぬ限り、萩の宮姫が正室となるはずだった。いっそそうしてくれれば気も休まるだろうに。文にはそう書かれていて、遠回しに未だ契りを結んでいないことにも触れていた。
 水良はそれを折り畳んで脇に置き、たまらずに馨君を背中から抱きしめた。
 そうだったのか…馨君。
 お前も…室を娶りながら、契りを交わさずにいたのか。それは…俺のためと自惚れてもいいのか。昼間、真っ赤な顔で水良をにらみ上げていた馨君を思い出して、水良は愛おしそうに馨君の肩に頬を押しつけた。あれは悋気だと、そう思ってもいいのか。
「…ん」
 水良の感触に、馨君が目を覚まして身をもたげた。背中に感じる体温に驚いてガバッと起き上がると、振り向いて水良に気づき、これは夢かと囁いた。水良が灯台の明かりの元、ゆっくりと首を横に振ると、馨君は脇息にしがみついたままジッと水良を見上げた。
 水良…水良、水良!
 俺は、もう…崩れそうだ。お前をこんなに愛してるのに、どうしてそばにいられないんだ。口元を押さえ泣くまいと大きく息を吸った馨君に、水良はその手をつかんで唇で柔らかく触れた。手のひらに口づけを、そして指先に。
「たった一夜でも…」
 水良の低い声が耳に届いた時にはもう、馨君は水良を抱きしめていた。その勢いのまま固い床に水良を押し倒し、手首をつかんで床に押しつけた。口づけは熱く、そして甘かった。息が止まりそうなほど続けて口づけを交わし、息を吸おうと馨君が唇を離すと、水良は馨君の袿を脱がせた。
 そのまま、単衣も、袴にも手をかけて。
「あ…」
 久しぶりに見る馨君の足が、灯台の火の下で露になった。それは相変わらずすらりと長く締まっていた。獣のような目で馨君は水良を見つめ、それから水良の胸元を開いてそこにふっくらとした唇を寄せた。クッと眉を寄せて馨君の愛撫を感じながら、水良は声を出さないように何度も呼吸を繰り返した。

 
(c)渡辺キリ