玻璃の器
 

 何も言葉が出なかった。
 互いに抱き合ってその体温を確かめることしかできなかった。すぐそこに女房が控えているからと、馨君は声を上げないようにずっと袿の袖を噛み締めていた。久しぶりに水良を受け止めた体は、今にもギシギシと音を立てそうなほど軋んでいた。
 暖かな夜で、水良の額には汗が浮かんでいた。目が合うと、水良も笑って馨君の頬に口づけた。柔らかな唇の感触が、気が遠くなるほど気持ちよかった。
「ずっとこうしていたい」
 思わず呟いて、水良は馨君と指を絡ませてた。ほんの少し動いただけで、体の芯を甘い痺れが貫いた。袿を噛んだまま馨君は頷いて水良の首筋に手を回した。
 どうしてこんなに、愛おしいと思ってしまうんだろう。
 どうして…馨君を見つめると、水良はまた柔らかく微笑んだ。宝物に触るようにそっと馨君の額に唇を押しつけた。切なげに喘ぐ顔も吐息も、目尻に浮かんだ涙も、時々、蕩けそうな表情で見上げる大きな濡れた黒い瞳も。
 俺の。
「…馨君」
「何…?」
 馨君が乾いた唇を舐めて尋ねると、水良は笑いながらお前が好きだよと答えた。吸い寄せられるように今日何度目かの口づけを交わすと、馨君は水良の顔を覗き込んだ。
 これが最後、今日こそ最後と思いながら…やっぱりいつかまた逢瀬を重ねることを望んでいる。こんな危うい関係いいはずがないと言いながら、抱きしめられれば体が答える。
 心も。
「…もっと早く」
「え?」
 かすれた声で言った馨君に、水良はその体に両腕を回して引き寄せた。その肩に頬を寄せると、馨君は目を閉じるのも惜しいというように水良を見上げて言葉を続けた。
「お前に好きだと言えばよかった」
 馨君の言葉に、水良は吹き出して笑った。愛おしそうにその頭を抱きしめて笑うと、何度も馨君の額や頬に唇を押しつけた。いつも、笑っていてほしい。汗ばんだ背中に手を回して水良が顔を覗き込むと、馨君は本当だと微笑んで水良の頬に口づけを返した。

 
(c)渡辺キリ