玻璃の器
 

 夜が明けるのを、共に待つことすらできなかった。
 一刻ほどの短い逢瀬で妻戸からするりと外へ抜け出た影は、女房に何か告げてから藤壺を離れた。何事もなかったかのように、女房たちはまた宿直についた。日が昇って内裏を照らすと、まるで夢まぼろしであったかのようにいつもと同じ一日が始まった。
 ほんのわずかでも水良と肌を合わせたことで落ち着いたのか、その日の馨君は久しぶりに声を上げてよく笑った。同じ左近衛の少将たちと共に冗談を言い合って笑ったり、冬の君と藤壺へ顔を出して、芳姫と遅くまで語り合ったりして過ごした。
 夜も更けて、三条邸へ戻るかこのまま藤壺に泊まるか芳姫と話していると、清涼殿の女房が慌てたような足取りでやって来て馨君に声をかけた。
「え、主上が私を? 藤壺さまではなく?」
 驚いて馨君が女房を見上げると、清涼殿の女房は頷いて、中将さまにお越しになられますようにと仰せでございますと答えた。隣に座っていた冬の君と怪訝そうに視線を合わせると、馨君は立ち上がった。
「何か急ぎの用でもあるのかもしれない。行ってみよう」
「兄上、私も共に」
 慌てて片膝をついた冬の君に、馨君は笑って大丈夫だと言った。
「よい知らせならいいのだが。ひょっとしたら、ただ単に碁の相手をと仰られるかもしれないし、戻らずとも心配しないでくれ」
 にこりと笑って、馨君は清涼殿の女房と共に藤壺を出た。藤壺と清涼殿は目と鼻の先で、馨君は萩戸で女房に自分の参上を告げるように頼んだ。
 …何だろう。こんな時刻に俺をお召しとは。
 皇子さまが見つかったのなら、俺ではなく大納言どのや父上が先に呼ばれるはず。軽く息をついて待っていると、女房が戸を開け、どうぞと言って控えた。馨君が立ち上がって夜の御殿に入ると、女房が入れ替わりに外に出て戸を閉めた。
「馨君」
 そう呼んだ惟彰の声はかすれていた。御帳台の中にいた惟彰は、青ざめてジッと馨君を見上げた。ただ事ならぬ雰囲気に圧倒され、馨君は戸口に平伏して、お呼びと伺いましたがと尋ねた。しばらく黙り込むと、惟彰は立ち上がって御帳台から出てきた。
「春宮付きの女房が、さっき私の元を訪れた」
「は…」
 何の話かと呆気にとられて馨君が惟彰を見上げると、惟彰は床に手をついたままの馨君の前に片膝をつき、その目を覗き込むように見つめた。
「朝顔だ。そなたも知っているだろう」
「あ、はい。朝顔とは東一条邸で…」
「あの者が、もう黙っていられぬからと、私に判断を求めてきた」
「…朝顔が、何を…?」
 怪訝そうな表情で馨君が尋ねると、惟彰は目をそらすことなく馨君の顔をジッと見つめて続けた。
「そなたと春宮が、未だ契りを交わしていると」
 …え?
 一瞬、何を言われたのか分からずに馨君は身を固くした。唖然として惟彰を見上げ、それから耳の先までカアッと赤くなって馨君は思わず自分の口元を押さえた。水良と俺の…あの逢瀬を、朝顔が見ていたというのか。
「お、主上、それは…」
「違うとは言わせぬ」
 短く吐き捨てるように言うと、惟彰は馨君の目を見据えた。
「そなたは知るまいが…逢坂という元は弘徽殿に仕えていた女房が、今も藤壺におる。弘徽殿の死と共に次は三の姫に仕えたいと申し出たのを、しばらく藤壺で芳姫を支えるよう言っておいたのだが、あの夜は」
「あ…あ、惟彰さま」
「あの夜はな、馨君。逢坂がそなたの宿直だったのだ」
 指の先が冷たくなった。
 背筋と頭の芯が、しびれて冷たく感じた。動くこともできずにただ惟彰を見上げ、馨君は真っ青になって指を震わせた。その馨君の様子が、言葉では否と言おうとも事実を目前に突きつけていた。ふいに頭を下げ、馨君は深く平伏した。お許し下さりませ…っ! 絞り出すような声が小さく響いた。
 馨君…私が許すことなど、何もない。
 そなたは水良を愛しているのだから、そして水良も。
 ただ、私は…心の奥底から震撼している。自らの欲望に。ただ一つだけ私が持つ力を、使おうとしている。
「…馨君」
 低い声で呟いた惟彰に、顔を上げることもできず黙ったまま馨君は言葉を待った。
「馨君、今宵…私の宿直をせよ」
「…主上!」
 顔を上げて、馨君は青ざめたまま惟彰を見上げた。惟彰の顔には怒りも苦しみもなく、ただ果てしなく悲しげだった。私は、主上という立場ではなく…ただの男としてそなたと添いたかった。水良のように、そなたと互いをただ一人の人と見定め合いたかった。
「どうか…どうかご容赦を!」
「ならぬ」
 真っ赤になって平伏したままの馨君に向かって短く言うと、惟彰はまた御帳台に入った。夜の御殿の戸口に座り込んで、馨君は答えられずにただ小刻みに震えていた。許してほしいと、再びどの口で言えるだろう。主上はすでに、お心を定めておられる。
 力なく立ち上がると、馨君は青ざめたまま直衣の紐を外した。襟元を開いて直衣を脱ぎ捨てると、指貫も脱いでその場に簡単にたたんで置いた。単衣姿で御帳台に近づくと、馨君は外で一度、足を止めた。
「入れ」
 惟彰の声に、黙ったまま身を屈めて中に入ると、馨君はすでにあぐらを組んで自分を見上げている惟彰の視線を避けるようにその場に座り、もう一度平伏した。この期に及んで、涙だけは流すまい。まだ指先はかすかに震えていて、馨君は黙ったままギュッと握りこぶしを作った。
 その手をつかんで。
 驚くほど優しくその手を取って、惟彰は目を伏せたままもう片方の手を上から重ねた。これから積年の恋が叶うというのに。ただ馨君の頬や唇はいつもと同じようにふっくらと愛らしく、それが余計に悲しかった。頼むから…せめてそなたから身を預けてくれ。
「主上…恐れ多いことにございます」
 小さな声で呟くと、馨君は俯いて長い睫をしばたかせた。その手を引き寄せると、呆気なく馨君の体は惟彰に添った。まるで初姫を抱くようにそろそろとその場に横たえさせると、惟彰は馨君の顔を覗き込んでその唇を柔らかく吸った。
 水良。
 …水良。目を閉じてその口づけを受けると、馨君は唇をわずかに開いた。その途端、惟彰の舌が割り込むように馨君の口の中を蹂躙した。馨君が身じろぎをすると、単衣の合わせから手を滑り込ませて惟彰は唇を離した。
 愛している。
 愛しているんだ。そなたを、愛してやまぬ…。目を閉じた馨君の表情を見つめると、惟彰は単衣をはだけて身を屈めた。ビクッと震えた馨君を見て、単衣を脱がせながら惟彰はその肌を味わうように手を滑らせた。
 …水良でしか反応しないなどと、聖人ぶるつもりはない。
 けれど…心がついていかない。愛していなくても、輿入れをする姫だっているだろうに。手を額に寄せて、馨君は押しつぶされそうな胸に息苦しさを覚えて大きく呼吸した。視点の合わないぼんやりとした表情で惟彰を見上げた馨君を、惟彰が長い腕を回して抱きしめた。目の前の耳を甘噛みすると、あ…と小さな声が馨君の唇からもれた。
 今だけは何も考えてはいけない。
 誰のことも、ただ目の前の人のことしか考えてはいけないのだ。
「主上」
 はっきりと呟いて、馨君は惟彰の肩に自分の手を乗せてつかんだ。目を開いて惟彰を見上げると、馨君は瞳を揺らしてそれから目を閉じた。口づけを交わすと、体の芯に火がついた。何もかも燃やし尽くさんとする行き過ぎた炎だ…。眉をギュッと寄せて惟彰の背中に腕を回すと、馨君は膝を立てて惟彰の重みを受け止めた。

 
(c)渡辺キリ