玻璃の器
 

 日が高くのぼっても、馨君はまだ夜御殿の御帳台の中に伏していた。
 毎朝主上の整髪を行う源典侍が御手水間で待っていても、一向に主上の姿は見えず、夕べは妃のお召しもなかったはずなのにと女房が外からそっと声をかけた。
「主上、ご不快でもあらせられたのでございますか」
 ドキッとして、惟彰に抱きしめられその腕の中にいた馨君は、身を起こそうとして首をもたげた。それを腕に力を込めて遮ると、惟彰は後ろから馨君を抱いたまま声を張り上げた。
「夕べ、中将に手折ってもらった桜の一枝を愛でておる。しばらく一人にしてくれ」
「しかし、もう」
「分からぬか。下がれと言っているのだ」
 穏やかな声で、それでも少し強い口調で惟彰が言うと、女房は源典侍にその言葉を告げるために下がって行った。主上。馨君が小さな声で囁くと、惟彰は後ろから馨君の耳に口づけた。
「構わぬ…そなた、これほどの甘露であったとは」
 情事の跡は、馨君の胸元に赤く残されていた。呆然とただ目の前の惟彰の指先を見つめた馨君の様子に、心がちくりと痛んだ。それでも、二度と手放すのは堪え難いほどの愛おしさが、惟彰の胸の中を渦巻いていた。離さぬ。甘く囁いて馨君の項に唇を寄せると、惟彰はまた馨君の肌を手のひらでなで回した。
 水良…惟彰さまに抱かれたこの体で、どうしてお前と顔を合わせることができよう。
 黙っていても、話しても…どちらにせよ、いずれお前を苦しめるに違いない。このまま惟彰さまの寵愛を受け続ければ、清涼殿の女房、ひいては内裏の女房たちにも知れよう…いつかは水良の耳にも。
 公卿や殿上人の噂にもなるかも知れぬ。そうなれば、父上や冬の君、そして芳姫までもが、俺のために誹謗されるやもしれぬのだ。
 俺がこのまま、ここにいれば。
 …いなければ?
 惟彰に抱きしめられ、馨君は目を伏せてギュッと惟彰の手をつかんだ。
「主上…」
 低い声で囁いた馨君に、惟彰は半身を起こしてその顔を覗き込んだ。
「主上、お願いがあるのです」
「何だ、申してみよ」
 馨君のほつれた鬢を直しながら惟彰が尋ねると、馨君は伏せていた目を開いた。振り向いてその優しげな目をジッと見上げ、それから目を閉じる。
「芳姫を、中宮に。そして冬の君を太政大臣に」
 驚いて惟彰が馨君の顔を覗き込むと、馨君は目を開いて惟彰を見つめた。その眼差しは真摯で、寝屋の睦言とも思えないような重みがあった。
「それだけを、お約束いただきたく…」
 吐息まじりにそう呟いて、馨君は惟彰の肩に腕を回して引き寄せた。これまで、政の頼みをされたことなど一度もなかった。ましてや芳姫を中宮に、などと…。真意が図れず惟彰が馨君の手首をつかんでその顔を覗き込むと、馨君は惟彰を見つめて、お約束いただけますかと再度尋ねた。
「ああ…そのつもりだ。芳姫は私にとってまごうことなき一の妃。兼長が左大臣になった今、藤壺を中宮とすることに反対するものはいないはずだ。冬の君も…」
「…冬の君も?」
「いや、しかし大臣となれば、年下で二の君である冬の君よりも、そなたの方が出世は早かろう。そなたを太政大臣にというのならともかく」
「私のことはよいのです。主上、どうか冬の君を太政大臣にと、お約束下さいませ。あの二人を私同様に慈しみ下さいませ」
 熱っぽい口調で重ねて言った馨君に、惟彰は訳も分からないまま頷いた。よかろう、約束しよう。そう言って、惟彰は馨君の額に唇を寄せた。相変わらず、自分のことよりも他の者のことに一生懸命なのだな。わずかに笑って、馨君に口づけて。
 馨君が内裏を退出したのは、日が暮れてからのことだった。
 大きな月が妖しい光を放ち、都では鬼が出る前触れではないかと人々が話していた。風が強く、ざわついた夜だった。藤の家紋の入った牛車はゆるりと三条へ向かい、途中で一度止まった。その夜、左大臣兼長の一の君は神隠しにでも遭うようにふつりと姿を消した。

 
(c)渡辺キリ