玻璃の器
 

 馨中将の行方が分からなくなったと知れたのは、その日の夜のことだった。
 内裏を退出した馨君に、再度、参内するようにとの主上の催促の文が来て、三条邸ではまだ馨君が戻っていないからと文使いを蛍宮邸へ回した。そこでも馨君が来る予定はないとの返事で、三条邸が不穏な空気に包まれ出した頃、中将の牛車が三条邸に戻って来た。
「中将さまは、笛を吹きながら歩いて戻ると仰せで、随身を一人おつけになって、一条で牛車を降りられましたが…」
「まだ戻らぬぞ。どこを回ると仰っておられた。主上からのお召しと馨君さまに伝えねば」
 三条邸の家司が尋ねると、牛飼い童は今にも泣き出しそうな顔で、分かりませんと答えた。
 騒ぎは寝殿にも伝わり、兼長と北の方が出てきて何事かと家司に尋ねた。馨君の牛車が戻ってから、半刻以上たっていた。このような月の妖しい晩にそぞろ歩きなど。眉を寄せてそう言うと、兼長は馨君付きの随身たちに探しに行くよう命じた。
「恐れながら申し上げます」
 それから一刻のち、馨君を探しに出ていた随身が青ざめて三条邸に戻ってきた。兼長が中門まで出てきて直接対すると、連れられて戻ってきた男は馨君と共にそぞろ歩いていた随身で、途中で馨君を見失い、今まで探していたのだと兼長に告げた。
「馨君さまが笛を奏でながら歩いておられると、どこからか似たような笛の音が聞こえてきましたので、どこで鳴っているのか確かめてくれと仰られて…ほんのわずか離れて戻りましたら、もう馨君さまの姿はなく…」
「なんと…それはどの辺りだ! 盗賊に連れ去られたのではあるまいな!」
 兼長が怒号を発すると、随身は申し訳ありませんと平伏して答えた。
「いえ、離れたといっても角を曲がって二、三歩ほどで戻りましたゆえ、盗賊が出たのなら声や物音が聞こえたはず。その笛の音以外はまるっきり静かで、馨君さまがご自分で動いたのではない限り、神隠しにあったとしか…」
「ええい、お前の話では分からぬわ! 誰か! 内裏へ行って検非違使を呼んで参れ! すぐに一の君を探すのだ!!」
 兼長の言葉に、随身たちが慌てて動き出した。後ろに控えていた北の方は、くらりとめまいを起こして脇にいた女房に支えられた。すぐにワシも参内するから仕度を! そう言って大きな体を揺すりながら、兼長は青ざめたまま寝殿に戻った。
 検非違使がその夜の内に都中を探索したにも関わらず、馨君は見つからなかった。
 兼長が参内したために、内裏に馨君失踪の噂が広がった。最近は憂いた表情をしていたものの、いつも愛らしく笑っていた馨君に心を和ませていた殿上人も多かったが、馨君の姿を見かけた者は名乗り出よとの主上の触れにも関わらず、その行方を知る者は一人もいなかった。
 三条邸の北の方、楽子を始め、話を聞いた芳姫も心痛のあまり臥せってしまった。藤壺には楽子の代わりに藤の皇太后が詰め、検非違使の他に時の中将が指揮を執る右近衛の陣の者たちも、馨君探索に加わった。
 馨君が姿を消したと聞いて、惟彰は真っ先に兼長を召した。どういうことなのだ。惟彰の声にはこれまで聞いたことのないほどの怒気が含まれていて、兼長はただただ平伏し、今、検非違使に探させておりますると汗をかきながら答えた。
 弘徽殿の死、皇子の失踪、そして馨中将の失踪と続いて、陰陽師が連日、陰陽寮に詰めて何が起こっているのかと暦を突き合わせていた。公卿たちの計らいで、内裏全体と三条邸に加持祈祷のため勢いよく護摩が焚かれた。梨壺では一人の女房が出家すると言って髪を切り、馨君を密かに慕っていた何人かの女房がそれに続いた。
 信じない。
 阿鼻叫喚の騒ぎの中、ただ一人、水良だけは静かに黙り込んでいた。あいつが俺に黙って行くはずがない。あの夜…契りを交わした夜に、あんなにも嬉しそうに笑っていたではないか。静かに母屋の真ん中に座していた水良に、梨壺の女房が来て、どうか夕餉をお召し上がり下さいませと言った。
「一口も召し上がっていないではありませんか。中将さまをご心配になる気持ちは分かりますが…どうか何かお口になさって下さいませ」
「もうよいから、膳を下げてくれ…朝顔の様子はどうだ」
「まださめざめと泣き続けて、どうか尼寺にというのを同じ局の女房が引き止めております」
「そうか。とにかく親元から文が届くまでは、そのまま間違いのないよう宥めてやってくれ。朝顔も馨君とは懇意にしていた…突然のことで、気が動転したのだろう」
 静かな口調で水良が言うと、別の女房がやって来て孫廂に平伏した。春宮さま、主上がお呼びでございます。そう言った女房に頷くと、水良は立ち上がった。

 
(c)渡辺キリ