玻璃の器
 

 惟彰が待っていたのは清涼殿でも藤壺でもなく、澪姫の使っている桐壺だった。
 今は弘徽殿の皇子のために、澪姫は里へ下がって潔斎し、写経をしている所だった。主のいない桐壺で、惟彰は水良を見上げた。水良が下座に座ると、惟彰は人払いして口を開いた。
「私は…馨君を抱いた」
 一瞬、何を言われたのか分からず、水良は目を見開いて惟彰を見つめた。惟彰の表情は真剣で、それが戯れでも何でもないことを表していた。いつ。かすれた声で水良が尋ねると、惟彰は水良を見つめたまま答えた。
「そなたと契りを交わした、次の夜だ」
 立ち上がって、水良は惟彰の胸元をつかんだ。惟彰の頬を殴りつけた音に女房が気づいて、母屋を覗いて悲鳴を上げた。おやめ下さいませ、春宮さま! 女房たちが慌てて止めに入ると、それにも構わず水良は怒鳴った。
「何てことを…何てことを! 兄上から召されれば断れぬ立場にあることは、あなただって分かってるはずだ!!」
「分かっている! だが…そうせずにはいられなかったのだ」
 苦しげに顔を歪めて、惟彰は水良を見上げた。
 自分に抱かれながら、馨君は何を思っただろう。
 水良と自分に挟まれた己の身を、呪わしく思っていたのではないのか。
 抱かずにはいられなかったのだ…。もう一度そう呟いて、惟彰は顔を歪めて目を伏せた。その姿を見て、水良は力が抜けてその場に座り込んだ。それじゃ…馨君がいなくなったというのは。
「馨君…!」
 床に臥して、水良はギュッと拳を握りしめた。本当なのか、馨君。お前は消えてしまったのか。心を潰されて、もう俺に…俺たちに会うことはできぬと、一人姿を消したのか。
 馨君! 叫ぼうにも声はかすれてもう出なかった。涙すら、乾いて出る気配もなく、ただ深い絶望感が水良の身を襲った。おろおろする女房たちに下がるように合図すると、惟彰は立ち上がって水良の手をつかみ、強く握りしめた。
「すまぬ…本当に、すまない。今、馨君を探し出すよう探索の手を広げている。あのように見目麗しい者だ、すぐに見つかるだろう…水良」
 名前を呼ばれ、水良は顔を上げた。血の気の引いた表情はどこかぼんやりとしていた。その両頬を挟んで子供の頃のように優しくなでると、惟彰はもし同じ者を愛さなければ…と苦しそうに呟いた。

 
(c)渡辺キリ