玻璃の器
 

 惟彰の予想に反して、馨君の行方は一向に分からなかった。
 季節は春から初夏へと移り変わろうとしていた。内裏より派遣された探索の手は都を出て、遠方にある兼長所有の無数の荘園にまで及んだ。
 馨君が自らの意志で失踪したのか神隠しに遭ったのかすら分からない中、残された萩の宮姫が馨君の無事を祈願するためにと尼寺に駆け込んで出家を果たした。愛娘の突然の出家は、老いた蛍宮とその北の方を更に心労の淵に追いやってしまった。
 時の中将を中心とした馨君の探索は、夏を迎えても熱心に続けられた。それは主上の意向だけではなく、親友である時の中将の意志でもあった。萩の宮姫の出家で都に呼び寄せられた椿の宮は、時の中将と共に手がかりを探すべく萩の宮姫の元を訪ねた。
「私は…本当はあの方が見つからなければよいとさえ、思っているのです」
 尼となった萩の宮姫は、今は萩尼君と呼ばれていた。背中で切りそろえられた髪は、若い容姿に似合わず哀れを誘った。初めからこうしておけば、馨君さまを苦しませずに済んだものをと落ち着いた口調で言って、萩尼君は蛍宮から譲り受けた小さな宮邸で二人に相対した。
「そうすれば、あの方も苦しまずに済んだでしょうに…一の宮、あの方には他に好いた姫君がおられたのよ」
 悲しげに微笑んで、萩尼君は言葉を続けた。
「どうにもその方と添い遂げることができずに、思いあまって姿を消されたのだわ。藤壺さまや兼長さまには申し訳ないけれど、私はもう馨君さまをお探し遊ばさぬよう、主上にもお文を差し上げたのですよ」
「そのようなことを…姉上、中将をなくして一番悲しいのは、姉上でしょうに」
「それは苦しいわ…苦しいけれど」
 目を伏せて、萩尼君は呟いた。
「けれど、あの方はきっと、都にいるには不器用すぎたのだわ」
「それでは姉上、中将が戻らなくてもよいと、本気で思っておられるのですか」
「それがあの方の幸せなら。私は馨君さまに幸せでいてほしい」
 萩尼君が答えると、時の中将はため息をついた。馨君さまの失踪について何かご存じかと思ったが、姉上があれでは。帰りの牛車の中で、椿の宮は暗い表情で答えた。
 まるで急に冬がやって来たかのように、内裏だけではなく都中が馨君の出奔に暗く静まり返っていた。誰よりも華やかな生まれを持ち、愛らしく笑顔を振りまいていた馨君がいなくなると、内裏は火が消えたように沈み込んでしまった。
 そんな中、弘徽殿の皇子をかどわかした罪で、柾目が島流しされることになった。本来なら一族郎党罪を償わなければならない所を、主上の意向で他に罰せられる者は出なかった。しばらくして謹慎していた行忠が兼長に薦められて再び参内しはじめると、徐々に内裏は以前のように動き始めた。
 水良を除いて。
 春宮のいる梨壺だけは、内裏が馨君のいない日常に慣れはじめても、いつまでも静けさを保ったままだった。春宮は梨壺に籠ったまま宮中行事にも顔を出さなくなり、時々、芳姫のいる藤壺を訪れる他は外出すらしなくなってしまった。
 誰もが馨君のことを心に留めながら、日々は飛ぶように過ぎた。

 
(c)渡辺キリ