玻璃の器
 

 会恵が高野を辞して宇治に籠るようになってから、実に五年の月日が流れていた。
 花河院からは相変わらずの絵の催促で、今度は皇太后と二人で眺めるからという文がようやく宇治に届いたのは、紅葉も見事な秋の頃のことだった。花河院からの文を持ち、舎人を一人つけ、身軽な狩衣姿をした公達が馬に乗って宇治の会恵庵を訪ねたのは、鮮やかな夕焼けが紅葉を彩るような時刻だった。
「お久しぶりでございます、佐保宮さま」
 ずっと会恵の所で雑用をしている男が、人のよさそうな笑みで出迎えた。夕焼けに萌黄の狩衣が映え、馬上の水良は絵の中の人物のようだった。本当に久しぶりだな。馬を降りて水良が答えると、男はニコニコと笑って答えた。
「それはもう、あなたさまがこちらでご元服遊ばされた時以来でございますから、もう八年になりますか。どうぞ中へ。会恵さまが先刻よりお待ちでございます」
「そうか…本当に、伯父上も人が悪いな」
 ため息をついて中へ入ると、水良は会恵の待つ母屋の上座に通された。
「伯父上、春宮の立太子の儀の後、東一条邸でもらされた話を詳しく伺いに参りました」
「わざわざ宇治までか。お前はしつこいのが短所だな。諦めることを知らん」
「長所の間違いでしょう」
「あの者が望んでおらんと申してもか」
 会恵が言うと、水良は視線を伏せた。
 先日、花河院と共に会恵も内裏へ呼ばれ、惟彰と席を同じくした。
 その後、東一条邸で水良とも酒を酌み交わし、酔いに任せて口を滑らせてしまったのだった。宇治の庵にいる尼君の話を。
「…会わせていただけませぬか」
 水良が低い声で言うと、会恵は黙ったまま水良を見つめた。そなた、忘れておらなんだのか。しばらくしてそう呟くと、会恵は腕を組んでから言葉を続けた。
「俺が見つけた訳ではない。あの者を見つけたのは別の尼寺にいる者で、今からもう五年以上も前の話になる」
「…」
「その尼は都の姫と見まごうような美しい衣を着ていたが、髪は肩を覆うほどしかなかった。桜の袿を担いで宇治川のほとりを歩く姿は、本当に春の精かと思うほど美しく、宇治では桜が満開だったゆえ、桜の精でも舞い降りたのかと一時期、麓で噂になったらしい」
「その者は…その姫はどうなさったのです」
 水良が尋ねると、会恵は脇に置いてあった杯を取って白湯を口に含み、それから目を伏せた。
「その姫君の美しさに見とれていた尼君たちが、どこへ行くのかと後を追うと、姫君は突然、宇治川へ身を投げたそうだ。慌てた尼君たちが男共に頼んで姫君を引き上げ、尼寺へ運んだのだ」
「な…!」
 驚いて腰を浮かすと、案ずるな生きておるという会恵の呆れたような声に、水良は腰を下ろして息をついた。それでどうなったのです。先を急ぐように水良が尋ねると、会恵は脇息にもたれて蝙蝠を取り出しパタパタと煽いだ。
「目を覚ましたはいいが、姫君はなだめすかしても叱り飛ばしても何も言わん。何か理由があるのだろうと、尼君たちは寺でしばらく世話をしていたのだが、やはり尼寺では特にあのように見目麗しい者を置いておく訳にもいかず、処遇に困っておった」
「尼寺で世話を…それじゃ、誰も気づかない訳だ」
「その通りだな。そのうち噂を聞きつけて、姫君を引き取りたいと言い出す公達まで現れてしまった。生きた屍同然とはいえ、そういつまでも尼寺に置いておく訳にもいかん。そこで困った尼君が伝手を辿って、俺に助けを求めてきたという訳だ」
「…」
 目を伏せて自分の手をジッと見つめると、水良は息をついた。
 ここなら、寺でもないから得体の知れぬ姫君でも預かれると踏んだのだろう。主は元春宮、身元もしっかりしているし、何よりもその者が高位だった場合にも処遇を任せられる。
「それをなぜ、黙っていたのです。都から行方を問う文が何度も来たでしょう。使者も」
 水良が怒ったように言うと、会恵は杯を置いて水良を見据えた。それは息をのむほど静かな表情で、水良が黙り込むと、会恵はまた腕を組んで逆に尋ねた。
「水良、お前はあの者をどれほど愛していると言うのだ。あの者がもし異形と成り果てていても、生涯あの者を愛すると誓えるか」
 会恵の声は固く、これまで聞いたことのないほど重みを持って水良に迫った。異形と成り果てても、愛するのか。それはそのまま自分自身への問いとなった。水良が視線を上げると、会恵は会わせてやろうと言って小坊主を呼んだ。
 会恵の庵には小さな離れがあって、宇治の尼君はそこを使っているとの話だった。
 水良を案内すると、小坊主は軽く平伏してから下がっていった。すでに日が暮れかかっていて、辺りは薄暗くなっていた。尼君の横顔が見えた。床についた尼君は寝具の上で身を起こし、ただぼんやりと日の暮れる庭を眺めているようだった。
 墨染めの衣に、肩までの髪も柔らかそうで風に吹かれるたびにさらりと揺れた。庭を眺める横顔はこの世の者とも思えないほど美しかった。心のどこかで安堵の息をもらして、それから水良は尼君の隣に片膝をついた。それでも尼君は水良に反応する様子もなく、庭の青々とした松を見つめていた。
 手を伸ばすと、水良は尼君の髪に触れた。冷たくなった頬に触れると、尼君の長いまつげがピクンと震えた。そのまま耳に触れて、水良は怪訝そうな顔で思いきって髪をすくい上げた。薄暗い母屋で、尼君の左の耳は醜くつぶれ、引きつった肌は髪で隠れるとはいえわずかに頬にまで及んでいた。川に落ちた時についた傷だろうか。そろそろとそのつぶれた耳を辿ると、水良は唇を寄せて肉の歪んだその耳に愛おしそうに口づけた。
 まだぼんやりと庭を見る尼の顔をそっと自分の方へ向かせると、水良はその唇にも口づけてから、尼の手を取って懐から出した白い紙作りの鳥を握らせた。
「芳姫が皇子を生んだよ」
 わずかに視線を揺らした尼君に、水良は頬に唇で触れてから言葉を続けた。
「芳姫の子が春宮となった。俺はお役御免だ、馨君」
 水良の低い声は、馨君の耳からわずかに心へ届いた。お前と共にいてもいいか。そう言った水良を見上げると、馨君は手を伸ばして水良の首筋を抱きしめた。
 涙がいくつも馨君の頬を滑り落ちた。まるで子供のように嗚咽をもらして、馨君は水良の腕の中で泣いた。すべてを浄化するように、水良の衣を濡らして涙はいつまでも馨君の目から溢れて流れ落ちた。

 
(c)渡辺キリ