玻璃の器
 

 三条邸の春は美しく、桜の蕾がほころんで今にも咲き誇らんとしている。
 東の対から女房の声が大きく響いた。春宮さま! はあはあと息を切らせて女房が駆け寄ると、木の上にいた幼い皇子が顔を出して明るい笑い声を上げた。
「若葉、ほら、鳥の巣」
「その木には毎年、鳥が巣を作るのです。でもそのような上までのぼられては危のうございます」
「危なくなんかないよ。佐保宮が言ってた通りだ。鳥の卵があるよ」
 ニコニコと楽しそうに笑って、春宮は太い枝を跨いだ。袴は木登りに邪魔だったのか、木の根元に脱ぎ捨てられていた。まあ、春宮さま。木を見上げると、若葉は涙ぐんで袖で目元を押さえた。それを見て唇を尖らせると、向こうから来たもう一人の女人に気づいて春宮は声を上げた。
「母上! 母上、ここ!」
 春宮の言葉に、方々を見て探していた様子の女人が気づいて袿をたくし上げ、近づいてきた。中宮さま。慌てた若葉が下がって控えると、嫌だわ若葉と言って芳姫は笑った。
「あなたがそんなことをしたら、私が藤壺だとばれてしまうわ。他の者にも女房だと思われるよう、せっかく裳や唐衣を借りて来たのに」
 芳姫が言うと、若葉は立ち上がって苦笑した。無茶はおよし遊ばせ。諌める若葉に肩を竦めると、芳姫は手を伸ばして春宮のすんなりと伸びた足をつかんで尋ねた。
「一人でお降りになれますの? 誰か呼びましょうか」
「降りられるよ。登れたんだもの。ねえ、母上」
 足を気持ちよさそうにぶらぶらさせると、春宮は不思議そうな顔で尋ねた。芳姫が何?と問い返すと、春宮は若葉をちらりと見て言葉を続けた。
「どうしてみんな、私を見て泣くの? おじいさまもおばあさまも、三位中将も。父上も私を見て泣いていることがあったよ」
 まだ五つのあどけない表情で尋ねると、春宮は芳姫の顔を覗き込むように見た。そばにいた若葉が、思わず顔を背けて目元を袖で押さえた。それはね、春宮さま。目を細めて呟くと、芳姫は優しい手つきで何度も春宮の足をなでた。
「それはね、あなたさまがある方によく似ておいでだからなのです。春宮さま…その方は昔、今のあなたさまと同じようにこの木にのぼっては、よく若葉に怒られておいでだったのよ」
「そうなの?」
「本当によく似ておいでだこと」
 にこやかに笑って話すと、芳姫は手を伸ばして春宮を抱き下ろした。そのまま抱っこしてふっくらとした愛らしい頬に自分の頬を寄せると、芳姫は春宮の顔を覗き込んだ。
「母上、その方は今、どこにいらっしゃるの?」
 舌たらずな言い方で春宮が尋ねると、涙を堪えていた若葉が嗚咽をもらした。その肩を優しく抱きしめると、芳姫は答えた。
「その方は、きっと常世(とこよ)にいらっしゃるのよ」

 
(c)渡辺キリ