歌合わせが終わって以来初めて蛍宮邸の門をくぐった馨君は、蛍宮と北の方の歓待を受けた。内裏での歌合わせでは蛍宮からいろいろと教えを受けたため、以前よりも心安く話せるようになっていた。馨君と酒を酌み交わしながら楽の話に花を咲かせた蛍宮は、夜も更けてから慌てて馨君に萩の宮姫の元へ行くよう促した。
「それではお先に失礼いたします。蛍宮さま、少し落ち着いたらぜひまた笛を教えて下さいませ」
ニコリと笑って言うと、馨君は丁寧に頭を下げて立ち上がった。次に来た時は義父上と呼んでおくれ。目を細めて杯を持ったまま言った蛍宮に、馨君は振り向いて頷いた。
女房を先触れに行かせておいたおかげで、萩の宮姫の対ではすでに寝所が整えられていた。単衣姿に袿を羽織って琵琶をつまびいていた萩の宮姫は、馨君の訪れに顔を上げて微笑んだ。
「お久しぶりでございます、馨君さま。まあ、お顔が真っ赤ですわ」
おかしそうに言った萩の宮姫に、馨君は頭をかいて、義父上と酒を飲んでいたのでと照れ笑いした。女房に手伝ってもらって白い直衣を脱ぐと、馨君は目を細めて言葉をかけた。
「藤壺での歌合わせのための準備が忙しくて、ついつい顔も出せずに申し訳ありませんでした。蛍宮さまにはいろいろと調度や衣装のことでご教授いただいていたので、こちらには伺っていたのですが」
「本当に、寝殿の方では楽しそうな声が聞こえてくるのですもの。お邪魔になってはと控えておりましたけど」
珍しくムッとしたように言った萩の宮姫に、馨君は驚いて振り向いた。姫? そう言って顔を覗き込んだ馨君を見て、女房たちは静かに下がって行った。
「姫…顔を上げて」
目を伏せたままの萩の宮姫に、馨君は狼狽えながら囁いた。ふうと大きく息をつくと、萩の宮姫は袖で口元を隠して馨君を見上げた。
「私、あなたさまが思っているよりもずっと悪い女ですわ…もっと心穏やかに生きたいのに、馨君さまのことを考えると苦しいの」
「…姫」
「他に愛している方がいらっしゃるんでしょう?」
涙目になって顔を伏せると、萩の宮姫は脇息にもたれた。顔を背けたままの萩の宮姫の背中を見ると、その肩を後ろから両手で抱いて、馨君は長い髪に頬を押し当てた。
ごめんなさい…本当に、ごめんなさい。
あなたを悲しませて、苦しませている。私と関わらなければ、こんな表情をさせずに済んだのに。
「そうじゃないんです。あなたを愛している…ただ、少し忙しくて」
萩の宮姫を抱きしめたまま、馨君は目を閉じて言葉を重ねた。そうすることしかできなかった。
「弘徽殿さまに赤子が生まれて、藤壺さまが塞ぎ込んではいけないと心を配って…やはり幼い頃からずっと仲のよかった妹姫ですから」
「ええ…ええ、藤壺さまからお文もいただきましたわ。しばらく馨君さまをお借りしますと。けれど…」
「本当に、他に愛している姫などいないよ。あなたがいつも快く送り出してくれるから、私もつい甘えて放ったらかしにしてしまった。本当にごめんなさい…姫」
ぎゅっと萩の宮姫を抱きしめると、馨君は目を閉じたまま静かに息を吐いた。水良…ごめん。水良、俺はお前の妃たちに嫉妬していながら、こうして萩の宮姫を抱きしめている。
弘徽殿さまを見た陰陽師が、主上と結ばれるべきさだめではなかったと言った。それと同じように…結んではならぬ絆を結んでしまった水良と俺は、こんなにも周りを悲しませている。心が…壊れそうなほど。俺も、萩の宮姫も。
「こちらを向いて…」
馨君が囁くと、萩の宮姫は涙に濡れた頬を袖で拭って顔を上げた。その体を抱いて濡れた頬に唇を寄せると、馨君は萩の宮姫の手を握りしめた。そのまま背を抱えて床に横たえると、馨君は萩の宮姫の顔を覗き込んで口づけをしようと目を伏せた。
「…ご無理なさらないで」
唇が触れる寸前に、萩の宮姫の吐息が馨君の唇にかかった。
驚いて馨君が身を起こすと、萩の宮姫は顔を覆って馨君に背を向けた。
「どうかあなたさまの御心のままに、なさって。私は大丈夫ですから…私は、あなたさまがそのように憂いた表情をされていることが一番辛いのです」
肩が震えて、馨君は言葉を失った。萩の宮姫の言葉が全くのでたらめだったら…本当に心から、何を言ってるのかと笑い飛ばせるのに。何も言えずに床に伏せたまま腕を伸ばして萩の宮姫を抱きしめると、馨君はただ黙って自分のぬくもりを萩の宮姫に与えた。
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