玻璃の器
 

 次の日参内した馨君は、退出する時間が来てもどうしても蛍宮邸へ足が向かず、予定を変更して三条邸に戻った。
 萩の宮姫と顔を合わせても、何を話していいのか分からなかった。萩の宮姫への不義理は、そのまま蛍宮への不義理につながった。自分のためにあれほど心を尽くしてくれた人なのに。そう思えば思うほど気が塞いで、馨君は自室に使っている西の対で長い間、庭を眺めた。
「そのように何もせずにいらっしゃるのは、随分久しぶりのことでございますわね」
 脇息にもたれて庭の葉桜を眺めていると、若葉が白湯を持ってきて声をかけた。初めは何を言われているのか分からず、ぼんやりと若葉を眺め、それから頷いて馨君は尋ねた。
「若葉…俺がもし」
「はい」
 白湯を杯についでそばに控えた若葉に、馨君は言いよどんで口を閉ざした。俺の気持ちをどうすることもできないのなら…このまま危うい関係を続けて世に知られるよりも、前に。白湯の入った杯をジッと見つめると、馨君はそれを口にした。馨君のふっくらとした唇が白湯に濡れた。
「いいや、何でもない」
「何ですの、途中でやめられたら余計に気になりますわ」
 苦笑した若葉に、それもそうだなと笑って馨君は杯を若葉に渡した。何ですの? 若葉が顔を上げて尋ねると、馨君は提子を若葉の手から取り上げて若葉に白湯をついだ。いただいてもよろしいんですの。若葉が笑って言うと、馨君は頷いて提子を脇に置いた。
「お前を初め、みなが俺によくしてくれるから…俺はどうやって恩を返せばいいのか分からないよ」
「恩を返すだなんて…馨君さま、私どもはみな、あなたさまに仕えることが何よりも嬉しいんですのよ。内裏の方々もそうではありませんか。みなさんも馨君さまがそこにおいでになることが嬉しいんでございますよ」
「…そう」
 目を伏せて呟くと、馨君はまた庭を眺めた。日が落ちて薄暗くなってきた庭をぼんやりと眺めている馨君の横顔をそっと見上げると、若葉は心配気に小さく息をついた。今日の馨君さまは…何だか儚げだわ。今にも消えてしまいそうなお顔をしていらっしゃる。バカな…縁起でもない。冷めてしまった杯の白湯を口に含むと、若葉はそれを下ろして馨君と同じように庭を眺めた。いずれ三条邸をお出になられて萩の宮姫さまとお邸を構えられるにせよ、それはまだ先の話…それに、兼長さまが将来もしご出家遊ばされれば、馨君さまがこのお邸を継がれるのだから。
「灯台に火をお入れいたしましょう。そろそろ格子を下げねば。夜はまだまだ冷えますもの」
 若葉が言うと、馨君は素直に頷いた。若葉が他の女房を呼んで格子を下げ、灯台に火を灯している間も、馨君はぼんやりと女房たちの動きを眺めていた。
 その日の夜遅く、濃子が死んだ。

 
(c)渡辺キリ