玻璃の器
 

 内裏からの再三の催促にも関わらず、水良は東一条邸に籠りがちになった。病気だという噂がいつのまにか広まったらしく、見舞いの品や薬まで届きはじめて、今度は文の返事を書くのに忙しくなってしまった。
「代筆させますか? お疲れでございましょう」
 料紙(りょうし)を持って戻ってきた若葉が尋ねると、水良はうーんと額を押さえた。
「俺の字じゃなかったら、余計に病気だとか思われない?」
「ご自分のお手でも、ご病気だとか何だとか言われてるじゃありませんの」
「それもそうか」
「そうですわよ。あら」
 ちょうど酉の刻を知らせる鐘が鳴って、若葉は大変と言って手に持っていた料紙を二階厨子に置いた。水良が控えていた他の女房に角盥を持ってきてくれと頼むと、若葉は水良の狩衣の紐を解いて筆を片づけた。
「そのままの格好では春宮さまをお迎えできませんものねえ。直衣をお出ししましょうか」
「うん、頼む」
「下襲はどういたします?」
「いらない。あ、これを桃園の宮へ頼む」
 さっきまで書いていた文を折って箱に入れると、水良は角盥を持ってきた女房にそれを渡した。桃園に住む前式部卿宮からの消息文の返事だった。前式部卿宮は柾目の父宮で、才気ばしった柾目とは正反対のおっとりとした皇族らしい人柄をしていた。
「こんな調子じゃ、命婦が言ってた落成祝いの宴なんてやってられないよ」
「そうですわねえ。もうすぐ主上の行幸があるそうじゃありませんの。それが過ぎるまでは無理ですわね」
 馨君さまだってお忙しいでしょうし。言いかけて、若葉は口をつぐんだ。冬の君が三条邸に引き取られてから馨君の訪れはまるっきりなく、それが原因で水良が引きこもってしまったのだった。うかつなことを言ったら、また落ち込んでしまわれるわ。せっかく絵をお描きになるようになって持ち直したのに。角盥で手を洗った水良に水滴を拭う布を渡して、それから若葉は水良の狩衣を脱がせた。
「そのうち、文用の水干でも作らせねばなりませんわね。この狩衣もお袖が真っ黒じゃありませんか。お袖は汚れるのに、よく料紙の方は汚さずにお書きになれますわね」
「絵も文も、気づいたら袖が汚れてるんだ。俺にも分からないよ」
「水良さまが長谷寺へいらした時の絵を若葉も拝見いたしましたけど、素晴らしい出来映えでしたわ」
「伯父上(会恵)に手ほどきをいただいたから、絵は少し自信があるんだ。俺は笛も琵琶もからっきしだけど」
 褒められてニコリと微笑むと、水良は二藍の直衣を身につけて懐に蝙蝠を挿した。もうすぐ衣替えだな。目を伏せて言った水良を見上げると、若葉は袖の乱れを直してから水良の腕をポンと叩いた。
「男前が一丁上がりですわね。しゃんとなさって下さいよ。東の対へお通ししますからね」
「はいはい。兄上が来るまで大人しくしているよ」
 茵に足を投げ出して座った水良が言うと、若葉は頷いて他の女房に指図をするために母屋を出て行った。急に辺りが静かになると、水良は脇息に頬杖をついて巻き上げた御簾の間からぼんやりと庭を眺めた。
 父上の行幸には俺も伴をしなければいけないし…近衛少将の馨君は当然来るだろう。嫌でも顔を合わせなければいけない。
 それなら…その前にいっそ三条邸に馨君を尋ねて行って、かき口説いた方がなんぼかマシなんじゃないのか? どちらにしたって望みのない恋なら…なりふり構わず体当たりしてみたっていいんじゃないだろうか。ふうっとため息をついて何となく懐の蝙蝠をいじっていると、ふいに東の門の辺りがざわついて、水良は身を起こした。
「佐保宮さま、春宮さまと時の大輔さまがお越しでございます」
 知らせにきた女房が簀子に控えて言うと、分かったと答えて水良は母屋を出た。女房の先導について東の対へ入ると、先に上座に座していた惟彰が立ち上がった。
「水良! 久しぶり」
 にこやかに笑って言った惟彰を見ると、水良もお久しぶりですと照れたように笑みを浮かべて頭を下げた。お久しぶりでございます。御簾近くの下座に座っていた時の大輔が平伏すると、来てくれてありがとうと答えて水良は惟彰の右斜め前に座を作らせた。
「こちらに引きこもっていると聞いたから病気でもしたのかと案じていたが、元気そうじゃないか」
「元気ですよ。ただ少し…絵を描いたり調べ物をしたりしていたものですから」
 水良が言葉を濁して答えると、惟彰は目を細めて水良をジッと見つめた。
「伯父上も絵がお上手だが、そなたは伯父上に似たのかな。内裏にいた頃に描いた絵は父上が時々出してご覧になっておられる。大変な出来映えだよ」
「ありがとうございます。でも、まだまだですよ」
「また伯父上がいらっしゃるそうだから、絵の手ほどきをしていただくといい。日程が決まったら文を寄越そう」
「はい」
 惟彰と会うのは久しぶりで、昔のままにニコニコと嬉しそうにしている水良を見ると、惟彰は視線を伏せた。あの夜…つい激情に任せて馨君に気持ちをぶつけてしまったが、もし本当に水良と馨君の気持ちが通じていたとしたら、この二人の仲を自ら裂いてしまったことになる。水良に嫉妬の念を抱いていてもやはり会えば可愛い弟で、後ろめたい気持ちを巧みに隠して本当に元気そうでよかったと惟彰は呟いた。
「馨君も弟君を迎えてから、三条邸に室を迎えたように付き合いが悪くなりましたからね。私の室も、兵部卿宮邸へ遊びにきてくれないので寂しがっていますよ」
「冬の君とか言ったかな。そのうち、内裏へも連れてくるように馨君に文を出したのだが、まだ三条邸にも慣れていない様子だから、年が明けるまではそっと見守りたいと返事が来たよ」
 時の大輔の言葉に惟彰が答えると、水良は少し黙って、それからそうですかと呟いた。馨君は兄上には文を出しているんだな。当たり前か…避けられているのは俺なんだから。視線を伏せた水良に気づいて、時の大輔が怪訝そうに眉を寄せた。
「佐保宮さま、最近、馨君はこちらへ出向いていないのですか?」
「え?」
 水良が顔を上げると、時の大輔は肩をすくめて笑った。
「室と言えば、佐保宮さまを室と思っておられるのかというほど、馨君はこちらへ通っておられたではありませんか。よくよく、馨君は世話をするのがお好きな性分なんでしょうね。冬の君は少し頑な所があったので、心をほぐしてやろうと懸命なんでしょう」
 時の大輔の言葉にはらはらしながら、若葉は運んできた茶を惟彰のそばに出した。水良と時の大輔にも出すと、そのまま廂の隅に控える。水良が答えずに視線を伏せると、時の大輔はふと真顔になって尋ねた。
「馨君と喧嘩でもされたのですか?」
「え?」
 水良と惟彰が同時に尋ね返して、時の大輔は腕を組んでだっておかしいじゃないですかと言葉を続けた。
「馨君も佐保宮さまの話をすると黙り込むんです。喧嘩したのかと聞いてもしてないと言うし」
「別に喧嘩した訳じゃ…少し忙しくて、会ってないだけだ」
 水良が答えると、惟彰がふうと小さく息をもらした。控えていた若葉がチラリと視線を向けると、惟彰は時の大輔を見て眉をひそめた。
「時の宮、他のみんなも…少し外してくれないか。水良と話がしたい」
「春宮さま?」
「すまないが」
 惟彰が言うと、時の大輔は分かりましたと答えて立ち上がった。それではこちらへ。若葉や他の女房たちが先導して行くと、母屋に二人残され、水良はあぐらを組み直した。
「何ですか、兄上」
 馨君のことだろうか。馨君の話をしてたんだもんな。
 水良が惟彰に視線を向けると、惟彰は視線を伏せ、それから顔を上げた。
「水良…私は、私は馨君を愛している」
「…え」
 水良が言葉を詰まらせると、惟彰は水良を見つめた。
「馨君にも伝えた」
「兄上…俺は」
「そなたも馨君を思ってるな」
 言葉がグルグルと頭の中を回った。兄上が、馨君を? 瞳を揺らして口を開くと、そのまま言葉にならずに水良は目を伏せた。
 兄上、兄上。幼い頃、そう言っていつも惟彰の後をついて回っていた。恐いことがあっても惟彰の後ろにいれば守ってもらえた。でも。
 馨君。
 ギュッと目を閉じると、水良は顔を背けた。お前をどうして他の人間に譲ることができよう。兄上と同じように…いや、それ以上に、お前は俺の命だ。寂しい時も辛い時も、馨君を思い出していつも耐えていた。馨君がいるこの世なら、生きているのもそう悪くはないと。
「兄上…馨君は何て」
 水良が呟くと、惟彰は一瞬黙り込み、それから答えた。
「私と契ることなど、すぐには考えられまい」
 契る。目を見開いて水良が惟彰を見上げると、惟彰は水良をジッと見つめていた。そのまっすぐな視線が恐かった。兄上は…すでに気持ちを固めているのだ。何があってもゆるがないほどに。
「馨君がここへ来ないのは、そのためかもしれない。お前にはすまないことをした…許せ」
 初めて目を伏せて惟彰が言うと、水良は黙ったまま首を横に振った。そうじゃない、そうじゃないんです。言いたかったけれど声にならなかった。俺は…兄上の気持ちなど何も知らずに、ただ馨君しか見ていなかった。
「…違いますよ。別に、兄上のせいじゃないんです」
「水良」
「馨君からはすでに、私を弟としか見られないって言われたから…」
 声が震えて、水良は立ち上がった。平気なふりをしないと、崩れてしまいそうだった。水良。惟彰も立ち上がると、二人の視線は同じ高さになった。水良の目を見据えると、惟彰はそうかと呟いた。
「でも、俺はまだ…馨君を」
 吐き捨てるように言うと、水良は御簾を押して隙間から廂へ出て行った。水良。小さな声で呟いて、惟彰はギュッと拳を握った。水良があんな顔をするのを初めて見た。私は…私にはどうしようもない。私にはどうすることもできないんだ。手が白くなるまで拳を握りしめると、大きく息を吐いて惟彰はその場に座り込んだ。

 
(c)渡辺キリ