玻璃の器
 

 白梅院邸は一条の外れにあって四町の広さを誇り、特に白梅院の趣味のよさが表れてとても美しいと京でも評判だった。門を入ってすぐの所に青々とした竹が茂り、白砂との色の対比が鮮やかだった。今日は主上の行幸とあって邸内には錦の布毯が敷き詰められていて、裳や唐衣を身につけ紅梅や青紅葉など常よりも綺羅びやかな五つ衣を着込んだ女房たちがずらりと並んでいた。
 一通りの儀式が終わった後、白梅院が主催する祝宴が始まり、庭先に設置された高台の上で左舞が演じられていた。主上の御前には公卿たちも高欄に並んで座し、色とりどりの長い裾を欄干に掛けて座に華やかさを添えていた。秋空に庭の遣水も爽やかに、澄んだ空気が辺りを取り巻いていた。
 いつ来てもすごい屋敷だな。管弦の宴が始まり、殿上人たちが酒を酌み交わしはじめた頃、水良はそっと席を外してようやく息をついた。冠をかぶり臥蝶の丸の文の入った白直衣の大君姿に太刀を佩き、人気のない所を探して孫廂をそぞろ歩いていると、御簾内から女房たちが囁く声がして水良は苦笑した。
 東一条邸では、馨君に倣ってみんな俺を子供扱いしてるからな。内裏にいた時はたまにこんなふうに噂されたっけ。佐保宮さまはお方さまがいらっしゃらないから、誘えば乗っていらっしゃるかもしれなくてよ。御簾内から聞こえた声に、水良は息をつき、それから御簾を勢いよくめくった。
「私の名を呼ぶのは誰か。何用だ?」
 水良が尋ねると、白梅院で働く若い女房たちがクスクスと扇の内で笑った。そのうちの一人、白梅院の愛人の一人でもある美しい女房がスッと前へ出て答えた。
「親王さま方の同じような大君姿でもあなたさまだけは違って見えるのですから、単衣になればもっと違って見えるでしょうね。そんな話をしておりましたのよ」
 いやだあという声が上がって、やはりここの女房は肝が座ってると苦笑して、水良は答えた。
「そうか。唐衣が並んでも、私には同じ唐衣にしか見えぬが」
 水良が答えると、女房たちはまあと怒りを含んだ声を上げた。どれも美しく決めかねるということだとからかうように付け加えて肩をすくめると、水良は御簾外に出て行きざまに振り向いて尋ねた。
「どこか静かな場所はないか。少し酒に酔った」
「私が案内いたしましょう」
 さっきの美人女房が立ち上がった。こちらにございます。簀子へ出た女房について歩くと、東北の対の壺庭でしたら少しは落ち着けるかと思いますわと話しながら、女房が水良を案内した。
「佐保宮さまは、身持ちが固くていらっしゃいますのね。とても白梅院さまと血が繋がっているとは思えませんわ」
 それとも、もう隠した姫がおられますの。女房が流し目を向けると、水良はいればみなも喜ぶだろうがと呟いた。錦の布毯は東北の対までずっと続いていて、壺庭のある廂は人気がなかった。水良がここでよいと女房に告げると、女房は振り向いて水良を見上げた。
「水良さま…私がこのお邸に上がった時には、あなたさまはすでに大人になられておりました。古参の女房どのが、幼少のみぎりの水良さまはお小さくて可愛らしかったと伺いましたが、本当ですの?」
「え、ああ…うん。まあ。背が伸びたのは十を過ぎてからのことだったから」
「私もお小さい頃の水良さまにお会いしたかったですわ。今ではこんなに大人びていらっしゃるのに…」
 女房はぽってりとした唇に控えめにさした紅も美しく、さすが白梅院の目に留まるだけのことはあった。水良が自分などまだまだだと言いかけると、女房がすかさずお直衣の乱れがと言って襟元に手を伸ばした。
「か、構わぬ。もうよいから行け」
 女房の衣のえも言われぬいい香りに水良が焦って言うと、女房は簡単にお直しいたしますわと言ってチラリと母屋を見た。東北の外れともなると母屋に人もいず、水良の手を引いて女房がこちらへと囁いた。
 …どうせ、俺など。
 一瞬、ムッとして水良は眉を寄せた。馨君を一途に思った所で、馨君にとってはどうせ俺など弟以下に過ぎないんだ。それなら…俺が誰と寝ようと、馨君には関係ないじゃないか。一人ぐらい。水良が息をひそめると、お早くと女房が水良を急かした。いくら人がいないとはいっても、今日は行幸で多くの公卿や殿上人が屋敷を訪れていて、いつ誰が来ないとも限らない。
「水良さま…」
 女房の甘い声に誘われ、まるで魔につかれたようにフラフラと水良が手を引かれて御簾内に入ると、女房は奥まで水良を引っ張り込んでからつつつっと水良の直衣の襟元に指を滑らせた。どこが乱れているって? 水良が目を伏せて尋ねると、女房が水良の襟元を外してここでございますわと囁いた。
 馨君。
 ゴメン! 思わず心の内で手を合わせて、水良は女房の体に腕を回して抱きしめた。柔らかな体を抱く感触は初めてのものだった。水良さま、という女房の色っぽい声がかすれて響いた瞬間、ふいに御簾が持ち上がって、水良はギクッとして振り向いた。
「おや、おイタの最中とは…栗駒どの、大殿さまがお知りになったら嘆かれますよ」
「柾目」
 水良が真っ赤になって女房から手を離すと、栗駒と呼ばれた女房はごめんあそばせと言って柾目と入れ違いにあわてて出て行った。バツが悪そうに水良が柾目を軽くにらむと、柾目は扇を口元に当ててニヤリと笑った。
「佐保宮さまはお一筋かと思っておりましたが、そのように楽しんでおられる様子で安心しましたよ。白梅院さまがさぞかしお喜びになられますでしょうね」
「…何が言いたい」
 一番マズイ所を見られたくない人に見られて、水良がボソッと尋ねると、柾目は手で持ち上げていた御簾をバサリと下ろしてから答えた。
「別に」
「おじいさまに言いたければ言うがいい。あの女房には他にも通う男がいるではないか」
 目を伏せた水良が直衣の襟元を留めながら言うと、柾目は水良をチラリと見てから言葉を続けた。
「そうですか、では行幸が終われば三条邸によって、それからもう一度こちらへ伺うことにいたしましょう。他にも佐保宮さまの妃問題でお悩みの方はおられますからな」
 三条邸。ドキッとして水良が柾目を見ると、柾目は開いていた扇を閉じながら御簾の外を眺めていた。無表情で黙ったままの柾目は余計に不気味で、息を殺して様子を探り、それから水良は息をついて尋ねた。
「俺に何をしろって言うんだ」
 水良の言葉に、柾目はさすがご聡明であられるなと低く呟いてから水良を見つめた。
「あなたさまには、権大納言家の三の姫を娶っていただかなければなりません」
「…え?」
 怪訝そうな水良の声に、柾目は必ずと付け加えてから言葉を続けた。
「それがある方のご意向でございます。今、内裏では左大臣どのが権力を一手に握っておられる。それは実力も家柄もある兼長どのでは致し方のないことでございますが…肝心なのは、あなたが左大臣の血の流れを受けていないということなのです」
「そのようなことは…関係あるまい。兄上が即位なされば」
「…なさらねば?」
 柾目の言葉に、水良が懐から扇を出してその先を柾目の喉元にスッと当てた。何を言う。呟いた水良の目には、静かな怒りの色がたたえられていた。
「水良さま、あなたには確固たる後見が必要なのです。皇族ではなく臣家の後見が。春宮さまが即位なされた後…いや、それまでに万が一お亡くなりになられでもした場合、あなたに権大納言家という後ろ楯がなければ、主上の他の皇子を担ぐ公卿が現れ、世の乱れにつながりましょう」
「バカな…兄上は死なぬ。それに妃がおらずとも俺には…」
 馨君がと言いかけて、水良は口をつぐんだ。今、この状態で本当に馨君…ひいては左大臣家が後見となってくれるのか、自分には自信がなかった。けれど…柾目の喉元に突きつけた扇を引くと、水良は柾目から目をそらした。
 柾目が言ったことは、確かに間違いではない。
 主上が退位し、惟彰が即位した時、もし惟彰に皇子がいなければ皇子が生まれるまでの繋ぎとして、自分が次の皇太弟に立つことも十分に考えられた。その時、いくら血筋がいいとは言っても、藤原家の後見がなければ春宮になることはできない。
 藤壺に育てられ、左大臣寄りの考え方を持つ水良より、ニュートラルな位置を保っている皇子が他の公卿によって担ぎ出される可能性は確かにあった。
「それでは、別に権大納言家の三の姫じゃなくても、左大臣の姫でもいいだろう。かの姫の名を出すのは、お前が権大納言家の婿君として遇されているからだろう」
 水良が吐き捨てるように言うと、それもありますがねとあっさり答えて、それから柾目はフッと笑った。
「佐保宮さまが左大臣家の姫君を娶った所で、すでに正室の姫は春宮さまの所へ入内しておられます。妾腹の姫では一生、春宮さまの『次点』のままでございますから」
 その表情は倦怠感を感じさせた。諦めにも似たため息に困惑して水良が黙り込むと、柾目はまっすぐに水良を見つめた。
「あなたが主上になれば…馨君はあなたの望む通りに。体も、心とて」
 柾目の言葉に、水良は胸の奥から吹き出す怒りに身を震わせて、手に持っていた扇で柾目の頬を殴った。鈍い音が母屋に響いた。声一つもらさず、見る見る内に腫れた頬を押さえもせずに柾目が涼やかな目で水良を見つめると、はあと大きく肩で息をついてから水良は怒鳴った。
「お前の口から馨君の名を聞きたくはない! 下がれ!!」
 水良の声が局へ届いたのか、しばらくしてさやさやと衣擦れの音が響いて、いかがなさいましたと御簾の外から女房が声をかけた。ジッと柾目をにらみすえた水良を見て、柾目は息をつき、何でもないから下がってくれと女房に答えた。女房が行ってしまうと、柾目は御簾のすぐ内側に平伏してから口を開いた。
「恐れながら、水良さまがなぜお怒りになられるのか私には分かりません。ただ…私は私の信念のままに、水良さまにご助言を申し上げただけにございます。気に触ることがあったなら、平にご容赦を」
「…お前…何を企んでいる」
 水良が低い声で尋ねると、何もと答えてから柾目は立ち上がった。いずれまたお目にかかりますと冴えた目つきで水良を見つめ、それから柾目は手に持っていた扇で御簾を押して母屋から出て行った。
 馨君の、体も、心も。
 扇を持つ手は震えたまま、だらりと下がった。その言葉に侮蔑と怒りを感じると同時に、誘惑されている自分もいた。自分が主上になれば、馨君の体も、心も。柾目の声を振り払うようにギュッと唇をかみしめ、水良はまだ揺れる御簾から外へ出て行った。

 
(c)渡辺キリ