玻璃の器
 

 庭の遣水で鵜飼などさせているのを眺める中で宴は進み、惟彰の声掛かりでずっと惟彰のそばに警護として控えていた馨君は、ふと水良が座に加わっていないことに気づいた。
 どこに行ったんだろう。水良は酒が苦手だからな…酔いつぶれていなければいいけど。馨君がさりげなく視線を配っていると、主上の声が聞こえて馨君は我に返った。
「…で、父上にもご相談したいこともございますし、何よりも父上がご退位なされた時の様子も伺いとうございます。今日は母上の供養も兼ねてこちらに足を運びましたが…」
「朕の御代など参考にすることもあるまい。前左大臣や公卿のみな、それにそなた自身のおかげで、大きな世の乱れもなく、民衆も飢えに苦しむことなく暮らしておる。そなたはさぞや前の世で功徳をおさめたのだろうな」
「いえ…父上」
 白梅院の席は主上の隣に作られ、階の前、鵜飼の衆がよく見渡せる場所にあった。裳唐衣に身を包んだ美しい女房が脇で酒をついだ。それに口をつけずに黙ると、主上は一段下に座を設けている左大臣兼長を初めとする公卿たちを見てから口を開いた。
「私も昨年頃から体調を崩す日も多く、先行きに不安を覚えるのです」
「何を仰います。主上はまだまだお若く、男盛りでこれからのお方にございます。中宮立后もまだ行われておりませんし」
 兼長の隣にいた右大臣が言うと、その通りでございますと権大納言行忠もあわてたように付け加えた。主上の体調が優れないということを聞いたのは初めてで、馨君が驚いて思わず惟彰を見ると、惟彰は黙ったまま馨君をチラリと見て首を横に振った。
「…大臣たちの言う通りだ。そなたは見た所、顔色もよく元気ではないか。それに私が退位した時にはただ病を理由に辞した訳ではない。春宮とて、まだまだそなたに教わりたいことも多かろう」
「そうでしょうか」
「せめて水良が妃を娶ってからにせよ。あれがまだ子供らしいふるまいをしておる間は、そなたも一人前の親とは言えぬのだから」
「白梅院さま、恐れ多いことながら、その言葉はあまりにも耳が痛うございます。私も独り身の子を持っておりますゆえ」
 兼長が惟彰の後ろに控えた馨君をチラリと見て言うと、白梅院を含め座がどっと湧いた。首まで真っ赤になった馨君が父上と咎めるように言うと、主上がクスクスと笑いながら声をかけた。
「馨君、そなたも父上を困らせておるな。早くよい姫を見つけて通うがよい。それとも、すでに私にすら秘密の恋人でもお持ちかな」
「滅相もございません。この所ずっと忙しくて、とてもそのような気には…」
 馨君が平伏して答えると、黙っていた惟彰が袖の内で笑いながら言葉を続けた。
「馨君に通いの姫などできたら、馨君に焦がれる内裏の女房たちが恋の病で倒れましょう。宮中の平穏のためにも、馨君はこのままでよいのです」
 惟彰さま。馨君が焦ったように咎めると、惟彰は本当のことではないかと答えた。以前、月見の宴で惟彰に抱きすくめられた感触を思い出した。馨君が真っ赤になって平伏したままお許し下さりませと小さな声で言うと、惟彰は目を伏せてすまぬと囁いた。
「水良は…あれは幼い頃からずっと、何でも自分で考えて行動してきた子です。妃のことも私や藤壺が何か言うよりも、水良自身の意志でよき姫に通ってくれたらと願っているのです」
「バカな…水良とて」
 主上の言葉に白梅院が言いかけて、それから口を閉ざした。水良もそのうち誰かの思惑で誰かを娶り、子供を作らねばならないのだ。俺だって…いつかは。目を伏せたまま、馨君は唇をかんだ。大声を上げて泣きたかった。

 
(c)渡辺キリ