三条邸で憔悴しているのは馨君だけではなかった。
左大臣兼長である。月見の宴が終わってから、持病の瘧(おこり)が物忌みがと言って少しずつ参内を控えはじめていた。心配した主上が使者を差し向けても、北の方が応対するばかりでなかなか要領を得ない。
「父上、そのように仮病を使われて、どうなされたというのです。今日は私までもが昼の御座に呼ばれて、権大納言どのなどは『本当に』ご病気なら加持祈祷の坊主を差し向けなければと仰られたのですよ」
まさかピンピンしてるとも言えませんから。馨君が呆れたように言うと、薄物の袿姿に烏帽子をかぶって臥せったふりをしていた兼長が、北の方が持ってきた白湯を口に含んでため息をついた。
「一の君…お前、弟が欲しくはないか」
「…はあ?」
下座にあぐらを組んで座っていた馨君は、あまりに突然の言葉にぽかんとして父親を見つめた。
「…まさか、母上がご懐妊されたのですか!?」
赤くなって馨君が楽子を見ると、楽子はムスッとした表情でそれならようございましたけどと答えた。え、母上の懐妊じゃないのか。馨君が首を傾げて兼長を見ると、兼長はまだ怒ったような表情をしている楽子を横目で見てから話を始めた。
「月見の宴の折りのことだが」
ドキンとして馨君が顔を上げると、兼長は両腕を組んで何から話していいのかと呟いて言葉を選ぶように視線を伏せた。
「実はな、一の君。わしには、お前が生まれる前から他に通うた姫がおってな」
「そんなの、わざわざ言うまでもなく大勢おられるでしょう」
馨君があっさりと答えると、シーッと人さし指を口に当てて兼長は楽子を見た。楽子はムッとしたままそっぽを向いていて、兼長はため息をついて言葉を続けた。
「その中の一人に、ある日、突然姿を消してしまわれた方がいてな、ちょうど少し忙しい時期で、何日か通わなんだ間に屋敷がもぬけの殻になってしもうた。神隠しにあわれたか鬼に食われたかと思うて向かいの者に聞いてみたら、その方は突然胸の病で亡くなられたそうなのだよ」
「…そうなんですか、お気の毒に」
馨君が目を伏せて答えると、うむと頷いて兼長はため息をついた。
「その方とわしの間には男の子がおってな…その方は身分が少し低いゆえ、わしが内大臣の息子だということも隠して通っておったので、その男の子を引き取ることもできずそのまま母の元で暮らしておったんだが、母上が亡くなられてすぐにその子もどこか行方知れずになってしまったのだ」
…あれ? 目を伏せて聞いていた馨君は、記憶の端に引っかかるものを感じて視線を上げた。そんな話、どっかで聞いたような…。馨君が首を捻って考え込んでいると、兼長はうーんと呻いてから口を開いた。
「その男君のことは、あの方の忘れ形見と思って方々探させておったんだが、見つからずにそのまま何年かたってしまって気に病んでおった。それがな、先日の内裏での月見の宴で、姿を見かけたのだよ」
「えっ!?」
あまりのことに馨君が驚いて声を上げると、兼長は頷いてずいと身を乗り出した。
「声をかけようと思ったが、その時は主上と語らっておったので動けなんだ。あわてて後で探しに行ったんだが、もうどこにもおらなんでな。月の精が見せた幻覚かとも思ったが、蛍宮さまが連れておられたので、蛍宮さまの二の宮さまが似ておられるのかもと」
「…蛍宮さま…あっ!?」
思わず腰を浮かして、馨君は真っ赤になった。何か心当たりでもあるのか!? 兼長が身を乗り出すと、馨君は腰を下ろして答えた。
「その男君というのは、ひょっとして藤壺さまによく似ておいででございませんか」
馨君が息せき切って尋ねると、兼長はうんうん頷いて似ておるわと答えた。
「藤壺さまはその男君にとっては叔母にあたるゆえ、わしには似ておらんがやはり血は争えぬと思っておったのだ」
「冬の君だ…」
腰が抜けたようになって呆然と馨君が呟くと、兼長は何?と尋ね返した。あの日は椿の宮さまが笛を吹くんだと時の大輔どのが言ってたっけ…それじゃ、冬の君も一緒について来ていたかもしれない。ドキドキする胸を押さえて息をつくと、馨君は兼長を見上げて言った。
「それは冬の君ですよ、父上。蛍宮さまの所に縁を頼って来られた君で、私より二つ三つほど年下で…うわ、本当ですか。あの冬の君が…」
赤くなって馨君がそわそわと言うと、兼長はすっくと立ち上がった。驚いて馨君が兼長を見上げると、兼長は言った。
「わしを蛍宮邸へ連れて行ってくれんか。すぐにでも会わねば!」
「え…でも、もう亥の刻ですよ?」
「まだ亥の刻だっ! 北の方や、直衣を…いやいや、浜風、直衣を出しておくれ」
むうっと口を閉ざしたままの楽子を見て兼長が女房の名を言い直すと、楽子は兼長を見上げて尋ねた。
「その男君を、すぐにでもお引き取りになられるのですか?」
複雑な表情で言った楽子に、兼長は楽子の手を握って分かっておくれと心を込めて言った。
「亡くなられた方には見取ってやれなかったという心残りもあるし、何よりも子供に罪はあるまい。もし、蛍宮邸で幸せに暮らしているならそれでもよいが…やはり引き取って、この手で幸せにしてやりたい」
「父上」
珍しくしっかりとした口調で楽子を諭した兼長を感心したように見上げて、それから馨君は重ねて楽子を説得するように言った。
「母上、冬の君はとても愛らしくて大人しい方ですよ。蛍宮さまも可愛がっておいでで、こちらが引き取りたいと申し出ても応じてくれるかは分かりませんが、遠縁の蛍宮家では、十分によくしていただいてもやはり肩身の狭い思いをすることもあるでしょう。冬の君がこちらにと言うのなら、私は喜んで弟として迎えたいのです」
「…でも」
ポロリと涙をこぼして、楽子は袖で顔を隠して泣き出した。私だって、私だって別に意地悪をしたいわけじゃないわ。ひっくと嗚咽をもらした楽子に兼長がおろおろと背中をなでると、楽子ははらはらと涙をこぼして答えた。
「私は殿をただ一人の君としてお慕い申し上げてきましたのに…殿は方々に側室を作って、それでもできた子は姫君ばかりなのだからと我慢してきましたが、男の子がいたなんてえ」
「す、すまん。いつか言おうと思っておったのだが…ついつい言えなんだ。それに一の君がおるゆえ」
「そうですよ、母上。それに、母上には私も芳姫もいるけれど、冬の君にはもう父上しかいないのですから。ほら、お腹を痛めずに男君がもう一人できたと思って」
取り繕うように笑って馨君が言うと、そう言えばそうかしらと言って楽子は顔を上げた。白粉がはがれた顔を袖で隠して兼長を見上げると、楽子は息をついて答えた。
「分かりましたわ。藤壺さまに似ていらっしゃるのなら、さぞかし愛らしい子でございましょう。もしこの邸に引き取りたいと仰るのなら、私がお世話させていただきますわ」
まだ涙をこぼしながら、楽子は答えた。すまぬな。真顔で楽子の手を取って謝ると、兼長は馨君にお前も着替えてきなさいと言いながら、女房が出してきた直衣を見てあたふたと仕度を始めた。
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