左大臣兼長が馨君を伴って訪れたと聞いて、すわ縁談話かと腰を抜かした蛍宮家の北の方に、萩の宮姫は呆れたようにため息をついた。
葵祭でお会いしてから一度だけ消息の文を交わして、それ以来お文すらいただいてないっていうのに。寝殿で禎子と碁を打っていた萩の宮姫は、あわてて着替えに立ち上がった禎子を見上げて落ち着きあそばせと声をかけた。
「父上が東の対で応対さしあげているのでしょう? どのようなご用件かは分かりませんが、ひょっとしたら管弦の宴のお話かもしれませんわよ」
「管弦の話なら家司かお使者が来られるでしょ。左大臣どのがわざわざ来るなんて余程のことよ」
だからと言って…。そばに出してあった琵琶に手を伸ばすと、それを弾きかけて萩の宮姫は琵琶をそばに置き直した。縁談話などというのはともかく…あの馨君さまがいらしているのだわ。そわそわと東の対の方に耳を澄ましていると、女房が一人来て簀子に控えた。
「お方さま、お殿さまがお呼びでございます」
「そう。今すぐに行くわ」
凝った織の袿を羽織って髪を整えると、禎子は扇を胸元に挿して廂に出た。知らせにきた女房に先導を頼むと、女房は戸惑ったような表情で答えた。
「あの、それが…このまま西の対へ行って、冬の君さまをお連れするようにと」
「え?」
思わぬ名前が出て、禎子はポカンとした。冬の君? そばで聞いていた萩の宮姫も、首を傾げて尋ね返した。
「それじゃ…きちんと角髪を結い直して、童直衣を着つけて連れて来ておくれ」
「はい」
言いつけられた女房はそのまま西の対へ向かった。私が連れて参りますわ。そう言って萩の宮姫は立ち上がると、袴をさばいて女房の後に続いた。
禎子が先に扇で顔を隠して母屋に入ると、下座に座っていた馨君が頭を下げた。やはりご立派なお姿だわ。几帳の裏に座って、馨君とその隣にどっかりと腰を下ろした兼長をそっと几帳の隙間から見上げると、禎子はお久しぶりでございますと挨拶した。禎子が子供の頃、何かの縁で前内大臣の邸に遊びに行った時、兼長とも会ったことがあった。こちらこそご無沙汰しておりますと言って、兼長は頭を下げた。兼長の話に困惑したような蛍宮の横顔が視界に入って、禎子は扇を閉じながら尋ねた。
「殿、兼長さまはどのようなご用件で?」
萩の宮姫のことは口に出さず、様子見に禎子が尋ねると、蛍宮はううむと唸って両腕を組んだ。蛍宮さまには先程申し上げたのですが。言葉を区切ると、兼長は額の汗を懐紙で拭ってあぐらを組み直した。
「先日、蛍宮さまと共におられた男君が、私の行方知れずの二の君によく似ておいでなのでございます。月見の宴でお見かけした話を一の君にしましたら、こちらにおられる冬の君という方が、その男君なのではないかと…」
「それで、一度目通りをと伺った次第なのでございます。間違いであるならば仕方がありませんが、もし本当に冬の君が私の弟なら、三条邸へ引き取りたいと父が言うものですから」
馨君が言葉を続けると、禎子は顔を真っ赤にしてまああ…と呟いた。冬の君は殿の隠し子なのではとずっと思ってきたのに。蛍宮の渋い横顔をちらりと見ると、禎子は大きく息をついた。
「殿、そういった理由なら我が家は構いませんわよね。冬の君も遠い縁のこちらにいるより、実の父上さまのおられる三条邸で暮らした方が幸せに違いありませんわ」
「まあ…そうだなあ。私ではいくら可愛がっていても、冬の君を左大臣どのよりよい家へ通わせてやることはできぬ」
ふうと息をついて蛍宮が自分を納得させるように呟くと、女房が妻戸を開けて、冬の君さまと大君さまがおいででございますと声をかけた。萩の宮姫が冬の君の肩を抱いて母屋に入ると、禎子と共に几帳の奥に座って冬の君に声をかけた。
「父上のおそばへ」
冬の君が几帳の奥からおずおずと顔を出すと、蛍宮がおいでと声をかけた。いつものように遠慮がちに蛍宮のそばに近づいて、それから冬の君は顔を上げて兼長を見た。
「父上」
冬の君が声を上げた。萩の宮姫が驚いて几帳の隙間から兼長を見ると、兼長が腰を浮かして小君(こぎみ)かと呟いた。信じられないと言う風に目を見開くと、冬の君は蛍宮に背を押し出されて一歩進んだ。
「なぜ、父上がここに…なぜ馨君さまが」
「ようやく探しあてたのだよ。ずっと探していたのだ、小君。わしの本当の名は藤原兼長…ここにいるのはお前の兄君だよ」
兼長が言うと、冬の君がポカンと口を開いた。無理もないな、いきなりそんなことを言われても信じられないに決まってる。立ち尽くしたままの冬の君を見て馨君が声をかけようと口を開くと、兼長が立ち上がって冬の君の前に膝をついて手を取った。
「小君、わしの元へ戻ってきてくれんか。薄情な父と恨んでおろうが、母上のことは見取ってやれなんだ…せめて、お前のことはわしの手で幸せにしてやりたい」
「あ…でも」
サッと表情を曇らせて、冬の君は蛍宮を見上げた。優しげな目が冬の君を見つめて、それから頷いた。行ってもよいのだよ。蛍宮が冬の君の小さな肩をポンと叩くと冬の君は俯いて、でも…ともう一度呟いた。
父上について蛍宮邸を出れば…椿の宮さまに会えなくなってしまう。
今までのようには。冬の君は視線を伏せたまま息を殺した。それでも構わぬという思いと、それは嫌だという思いが二分していた。自分が望むように自分を扱ってくれなかった椿の宮に対する恨めしい心と…たった一人、いつも共にいてくれた椿の宮に対する思慕の心と。
「よかったではありませんか。三条邸に行けば、こちらにいるよりもずっと立派な暮らしができますよ」
冬の君が蛍宮の隠し子じゃないと分かって、機嫌がよさそうにニコニコと笑みを浮かべた禎子に言われ、冬の君は振り向いた。可哀相に。小さな身なのに、大人の都合であちらこちらにやられて…。扇の内で息をついて萩の宮姫が冬の君を見つめると、冬の君はただ禎子の言葉が頭の中をグルグルと回ったまま、兼長を見上げた。
「あの…三条邸に参っても、父上の北の方さまは不愉快には思われませんか」
冬の君が尋ねると、兼長は大きな手で冬の君の頭をなでた。北の方はお前を迎えようと言っておるよと優しい声で答えた兼長に、冬の君は頷いた。
「父上と共に参ります。あの…ただ、椿の宮さまにお別れを」
「まあ、でも二の宮はしばらく戻って来ませんのよ。琵琶を習いに北山の法師の元へ出かけているものですから」
禎子が言うと、萩の宮姫が母上と声をかけた。
「二の宮と冬の君は、それは仲がよかったのだもの。せめて二の宮が戻ってくるまで、冬の君はこちらでお預かりしては」
「なれど…冬の君も、できるだけ早く三条邸へ移った方が、慣れてよいのではないだろうか。年も年だし…元服はこの通りまだ行っていないのですよ。あまりにあどけないお顔をしておいでなので、冠をかぶせるのが忍びなくて」
蛍宮が苦笑すると、兼長が冬の君の頭をなでながら、小君は何も心配せずとも安心して父上の所へおいでと言って笑った。その屈託のない笑みは、少し馨君に似ているような気がした。馨君が私の兄上…。下座に座って優しげに目を細めている馨君を見ると、冬の君は頷いた。
「それなら、椿の宮さまが戻られたら三条邸へおいでになるようお伝え下さい。私が冬の君を連れて参っても構いませんし」
「いえ、馨君さまのお手を煩わせるようなことは」
馨君の言葉に驚いて冬の君が答えると、兼長は笑って兄上と呼んでよいのだよと笑った。本当に信じられないようなことだ。蛍宮が息をついて呟くと、冬の君は振り向いて蛍宮をジッと見上げた。
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