玻璃の器
 

 夜半を過ぎた頃、冬の君を乗せた車は三条邸に到着した。
 兼長が十二歳には見えないような小さな手を取って冬の君を寝殿に迎えると、母屋で待っていた楽子が冬の君のあまりの愛らしさに頬を赤くして、まああと声を上げた。
「よくいらっしゃいましたね。突然こちらへおいでと言っても、何やら夢のようなこととしか思えなかったろうに。殿は無神経ですわ。蛍宮さまの所に馴染んでいたのなら、せめて一晩なりと、あちらで別れを惜しませてやってもよかったでしょうに」
 三条邸の瀟洒な屋敷に驚いてコチコチに緊張していた冬の君は、楽子の言葉にも驚いて兼長を見上げた。母が頓死して以来、自分の気持ちを考えてくれるような大人などこれまでいなかった。冬の君がお初にお目もじ申し上げますと小さな手をついて言うと、楽子は目を細めて冬の君の手を取った。
「きちんとした挨拶ができて、えらいのね。一の君とは大違いだわ。母上さまのしつけがよろしかったのねえ。私も少しこのように一の君をしつけた方がよかったかしら」
 感心したように言って、楽子は冬の君の肩に手を置いた。とばっちりがこちらに来そうだと肩をすくめると、馨君は女房に頼んで自分の部屋に冬の君を案内するよう頼んだ。
「馨君さま?」
 冬の君がおずおずと呼ぶと、馨君はにこりと笑って言った。
「私は明日、西の対へ移るから、冬の君は私の部屋を使うといい。慣れない邸で眠れないだろうから、今夜は私と共に寝よう」
「あら、私だってこのような愛らしい君なら、一緒に寝たいわ。殿もこれほどまでに愛らしい君とは教えて下さらないのだもの」
「だが、小君はもう十二になるぞ。小柄だからそうは見えないが」
 女房に冠を外させながら兼長が言うと、楽子は驚いてまああと目を見開いた。一の君が元服したのは十三の時だったかしら。楽子が尋ねると、馨君はそうでしたっけ?と答えた。
「あなたもずいぶんお小さかったけれど、小君はそれよりもまだ小さいわねえ。殿、ご元服はどうなさるおつもりなの?」
「できれば早く済ませてやりたいが…左大臣家の二の君とお披露目もせねばならんしなあ。どちらにせよ、新年の話になるだろう」
 兼長の言葉に冬の君が戸惑っていると、馨君は冬の君の腕をつかんで行こうと言った。一の君? 楽子が声をかけると、馨君はにこりと笑って答えた。
「母上、もう子の刻を過ぎているのですよ。冬の君だって疲れているのだから、少し休ませないと」
「そうね。ね、本当にそちらで寝るの? やはり私と共に」
「私が西の対に移ったら、好きなだけ一緒に眠ればいいじゃありませんか」
 苦笑して、馨君は冬の君を連れて自室に向かった。今、馨君と共に知らない邸にいる自分が信じられなかった。椿の宮さま…今頃は何をしておられるだろう。緊張が解けないまま口をつぐんでいる冬の君に気づくと、馨君はこちらだと言って自室に冬の君を招き入れた。
「着替えを手伝ってやってくれ。私の昔の単衣があっただろう」
 馨君が女房に頼むと、女房がはいと答えて冬の君の着ていた童直衣を脱がせた。あの…。赤くなって冬の君が俯くと、馨君はん?と振り向いて尋ねた。
「何?」
「あの…父上は本当に、馨君さまの父上さまなのですか」
 それがまだいまいち信じられなくて冬の君が尋ねると、違ったら俺の方が驚くよと答えて馨君は冬の君の袴の紐をしめてやった。自分でやりますと言ってあわてて身を引いた冬の君を見ると、馨君はやらせておくれと言って冬の君に軽い羅の袿を羽織らせた。
「妹は入内してしまったし、違い腹の方たちもみな姉妹ばかりだから、弟が欲しかったんだ」
 目を伏せて言うと、馨君はにこりと笑った。冬の君が弟で嬉しい。そう言って目を細めると、馨君はふと目をそらして自分の冠も外した。女房に着替えを手伝うよう頼むと、女房の双海が馨君の指貫の紐を外しながら笑った。
「弟君さまと言えば、水良さまも若君さまよりずっと大きくおなりなのでしょう? それに比べれば冬の君さまはお小さくて、やはりどことなく若君さまに似ておいでですわ」
「…うん、そうだな」
 一瞬、寂しそうに笑って、それから馨君は冬の君を見た。水良さま…主上の二の宮さまだったか。蛍宮さまから聞いたことがある。仲よくしておいでだったんだろうか。冬の君が馨君の表情を見ると、馨君はゆっくりお休みと言って冬の君の頭をなでた。

 
(c)渡辺キリ