玻璃の器
 

 左大臣兼長の元に二の君が引き取られたという話は、またたく間に宮中を越えて京中に伝わった。冬の君が母親と住んでいた宿の周りに住む人々は、蛍宮家に引き取られた冬の君は運のいいことだと以前から話していたが、それが左大臣家の隠し子だったことを聞いて何という夢のような話だと噂し合っていた。
「本当に、絵物語のような話でございますわ。あの馨君さまの弟君だったなんて。私の実家が冬の君の住んでいた家の近くにございまして…」
 噂話に忙しい女房たちを横目で見ると、文の美しい鮮やかな朽葉のかさねの細長を羽織っていた朱子はそれを脱いで単衣姿になった。まあ、姫さま。はしたない。そばにいた女房があわてて細長を拾い上げると、朱子は眉をひそめて答えた。
「馬に乗るから、水干を出してよ」
「馬などいけませんわ! もうじきに御裳着でございますのに」
「関係ないじゃない。細長は重いから嫌いなんだもん」
 ムッとして答えると、その場に座り込んで朱子は膝に頬杖をついた。仲よし女房の大弐は父によって朱子のお付きを外されていて、憮然として脇息に顎を乗せた。
 つまらない。毎日毎日、姫らしくしろだの大人しくしろだの言って。朱子が立ち上がると周りの女房たちがビクリと震えた。小さな暴れ馬が突然何をするのかと、教養高くなよやかな女房たちはみなハラハラしているようだった。
「姉上の元へ行くわ。ついて来なくていいから」
 それだけ言って、朱子はふいと北の口(きたのくち)から出て行った。ああは仰られても、一人はついていったほうがよいのではなくて? 残された女房がひそひそと話すと、年若の女房が一人立ち上がった。
「私が行きましょう」
「そ、そう。よろしくお願いね、栄」
 悪い方たちではないのだけれど。他の女房たちの取り繕うような笑みにニコリと笑みを返して、栄は朱子を追いかけた。寝殿に入った所で朱子に追いつくと、先触れに参りましょうと声をかけた。
「構わないわ。姉上は急に行っても怒ったりしないから」
 欄干から頬杖をついて南庭を眺めている朱子が、憮然とした表情で答えた。姫さま? 栄が声をかけると、朱子は目を閉じてため息をついた。
「父上なんて、もっと小さい頃は私が弓を引いたり馬に乗ったりしたら、上手いって言って褒めてくれたのに…急にどこぞの宮さまとの縁談があるからと言って、女らしくしろ、和歌を覚えろ、琴を覚えろって言い出してさ。うるさいったらありゃしないわ」
「姫さまは男の子になりたかったんですのね?」
 笑いを堪えて栄が言うと、朱子は欄干から手を離して唇を尖らせた。
 だって、父上が言ったんだもん。
 うちは女の子ばかりで、男の子も一人ぐらいは欲しかったって。
「別にい」
 そう言ってため息をつくと、朱子は単衣袴姿のまま歩き出した。栄は局に戻ってもいいわよ。朱子が言うと、栄はフッと笑った。
「姫さま、私の夫がこのお邸でお殿さまの従者をさせていただいているのですが」
「知ってるわよ。葵祭の時に来ていたもの」
「今日は市に行くと行っておりましたの。姫さまもご一緒なさいますか」
 栄が言うと、朱子は驚いたように振り向いた。本当に行ってもいいの? パッと顔を輝かせた朱子に、栄は頷いてシッと人さし指を立てた。
「内緒でございますよ。水干を着て、男の子のふりをしていけば大丈夫ですわ」
 いたずらっぽく笑った栄に、朱子は行くわと言って栄の手をつかんだ。早く着替えさせてちょうだい。声を弾ませて言った朱子を見て、栄は参りましょうと声をかけて東の対へ向かって歩き出した。

 
(c)渡辺キリ