玻璃の器
 

 栄にこざっぱりとした水干を着せられ、東市が開かれている七条に着いた時にはもう未三つを過ぎていた。栄の夫、敏行に手を引かれて歩いていた朱子は、大勢の人々が入り交じる市の様子を見て頬を赤くした。
「うわあ! すごい人!」
「いろいろな人が出入りしますからね。下々の者から、時には貴族の方までいらっしゃいますよ」
 姫さま、転ばないよう気をつけて下さいよ。人のよさそうな笑みを浮かべて敏行が言うと、朱子は大丈夫よと答えて目を輝かせた。水干を着て髪を角髪に結った朱子は、十歳ぐらいの少年に見えた。市に並んだ品物や、かごを下げて歩く端女や髪の白い老女、烏帽子水干の男たちを珍しげに眺めながら歩いていると、ふいにざわめきが大きくなって、朱子は振り向いた。
「何かしら」
「さあ、どこかの貴人がいらっしゃったのでは」
「私の父上と、どちらが偉いかしら」
「そりゃ、朱子さまの父上さまの方がお偉くていらっしゃいますよ。京の町で父上さまより偉い方は、もう大臣しかいらっしゃいませんから」
 ニコニコと笑って言った敏行に、何となく誇らしげに胸を張って朱子はニコリと笑い返した。可愛い櫛! これが欲しいわ! 花の絵のついた柘植の櫛が並んでいるのを見て朱子が駆け寄ると、敏行はやっぱり可愛らしいものがお好きなんでございますねと声をかけた。
「これで髪をとかすと、綺麗になりますよ。姫さまは綺麗な髪をしておいでですから、お裳着を済ませられましたらさぞかしお美しい女君になられますでしょうなあ」
「私が使うのではないわ。栄と大弐にあげるのよ」
「では二つ買いましょう。姫さまにはもっと上等な櫛がございますから」
 敏行がそう言って懐から金の入った袋を出すと、朱子が赤くなって袖を引いた。何でございましょう。敏行が尋ねると、朱子は敏行を見上げて頼んだ。
「やはり三つ買ってちょうだい。大弐とお揃いがいいの」
「そうですか。では三つ買いましょうね」
 その様子が可愛くて、敏行は笑いながら朱子の髪をなでて、櫛を売る商人に三つくれと頼んだ。敏行の袖を離して満足そうにそれを見ていた朱子は、ふと前から小さな犬が歩いてくるのに気づいた。犬は朱子をちらりと見て、それから知らぬふりをして通り過ぎていってしまった。
 変な犬。首にお札をぶら下げていたわ。
 敏行が櫛を受けとっているうちに、朱子は犬についてスタスタと歩き出した。誰かのいたずらかしら。あんなにたくさん札をつけて。犬について歩いていると人込みを抜けて、札を首につけた犬はふいに走り出した。
「あ、待って!」
 すらりとした足で駆け出した朱子が息を切らしながら犬についていくと、突然、わっという高い声が響いた。犬が子供に飛びついて、手に持っていた揚げ菓子を奪ってはぐはぐと食べはじめた。犬に飛びかかられて転んだ子供が呆然と地に落ちた菓子を見ていると、追いついてきた朱子が何してるのと呆れたように言った。
「あ…これは、あなたの犬?」
 自分と同じような水干を着ている朱子を見上げ、少年は手についた土を払った。少年は朱子よりも小柄で顔もあどけなかった。
「ドン臭い子。犬にお菓子を取られるなんて」
 朱子が少年の手を引いて起こすと、少年はありがとうと言って立ち上がった。
 ずいぶんいい着物を着てるけど、どこの子かしら。朱子が怪訝そうに少年を見ると、少年は犬が食べてしまった揚げ菓子の残りを見てため息をついた。
「せっかく買っていただいたお菓子が…」
 …いただいた? 朱子が眉を寄せると、冬の君さま!と呼ぶ男の声が響いた。あ、熾森さん。冬の君が振り返ると、駆け寄ってきた熾森が土のついた冬の君の水干を見てそれを払った。
「転んだのですか? お気をつけになって下さいよ。急に姿が見えなくなったから、若君さまが青くなられて大慌てで探しておられます」
「すみません。馨君さまは」
「兄上とお呼びになって下さい。私のことも呼び捨てになさって下さいよ」
「すみません…」
 しゅんとして肩を落とした冬の君に、熾森は苦笑した。あなたはまずえらそうになさることを覚えた方がよろしいですね。熾森が冬の君の手を引いて歩き出すと、そこに留まっていた朱子が口元に手を添えて冬の君を呼んだ。
「私の犬じゃないわ!」
 冬の君が振り向くと、朱子が怒ったように頬を赤くしていた。黙ったまま冬の君が頷くと、ちゃんと分かったのかしらと息をついて、朱子は振り向いた。
「姫さま、勝手にどこかへ行かれては迷子になりますよ」
 方々を探して歩いてきたのか、はあはあと息を切らして敏行が追いついてきた。はい、先程の櫛ですよ。敏行が柘植の櫛を朱子の懐に入れると、朱子は嬉しそうにそれを手に取って眺め、それからさっき冬の君が行ってしまった方へ向かって駆け出した。
「ねえ! あの…冬の君!」
 まださほど進んでいなかったのか、人込みの中で振り向いた熾森が気づいて冬の君に声をかけた。冬の君が振り返って邪魔にならないよう端へ寄ると、朱子が肩で息をついて櫛を差し出した。
「これ、あげる。菓子を犬に食べられて可哀相だから」
「…別に可哀相などでは」
 冬の君が呟くと、朱子は強引に冬の君の袂に櫛を突っ込んでまた戻っていった。あわてて追いかけてきた敏行が朱子の手をつかむと、櫛をあげてしまってごめんなさいと謝る朱子の横顔がちらりと見えた。
「あれは…権大納言行忠どのの従者の方ですな。たしか敏行どのとか。あの方に男の子はいなかったと思うが、縁者の子でしょうか」
 熾森が呟くと、冬の君は袂に入った柘植の櫛を取り出した。それを熾森に見せると、男の子はこんなものを欲しがるかなと言った。
「多分、女の子だよ。あの人が姫さまと呼んでいたし」
「姫…それはないでしょう。あのぐらいの年頃で敏行どのが姫と呼ぶようなお方といえば権大納言どのの三の姫ですし。それに、若君も櫛がお好きで、お小さい頃は市にお連れすると欲しいとねだられてましたよ」
「馨君さまが?」
 おかしそうに言った冬の君に、熾森はまた冬の君の手を引いて歩き出しながら、兄上とお呼び下さいと申し上げましたのにと笑った。昔、向かいに住んでいた子によく似てた。フッと笑って櫛を懐に戻すと、冬の君は二人を見つけてあわてて駆け寄ってきた馨君に気づいた。

 
(c)渡辺キリ