玻璃の器
 

「…冬の君が!?」
 北山の法師の元から蛍宮邸へ戻った椿の宮は、冬の君が左大臣家へ引き取られたと女房から聞いて、思わず立ち上がった。
「そんな…なぜ左大臣家なのだ。何も縁などあるまい。なぜお前たちで引き止めなかったのだ」
「それが…」
 冬の君を疎んでいた女房たちが言いよどんだ。冬の君が左大臣家に移ってから、椿の宮付きに戻されていた者たちだった。椿の宮の真っ青な顔色に、清白が申し訳ございませんと床に手をついた。
「左大臣さまが仰るには、冬の君さまは左大臣さまと冬の君さまの母上さまとの御子だそうでございます…冬の君さまも、左大臣さまを見てお父上と」
「そんなこと、冬の君は一言も申してはいなかったではないか!」
 脇息を蹴り倒して大きく息をつくと、椿の宮は激情に任せてそばにあった文箱を投げつけた。おやめ下さりませ! 真っ赤になって清白が椿の宮の腕をつかむと、椿の宮はそれを振り払って怒鳴った。
「冬の君がそのようなことを承知する訳がない! 俺に言わずに勝手に左大臣家へ行くなど…ありえない!」
 振り絞るように言葉を吐くと、椿の宮は母屋に敷いてあった畳の上に顔を伏せた。握りしめた拳はみるみるうちに白くなった。椿の宮さま…。清白が声をかけると、母屋の隅で固まって震えていた女房の内の一人が恐れながらと小声で言った。
「冬の君さまは、こちらのお邸よりも左大臣さまのお邸の方がよいと仰られたと、北の方さま付きの女房が言っておりました。元よりこちらは遠縁ゆえ、実の父上さまがおられる左大臣家の方がよかったのでは…」
 本当はそう言ったのは北の方である禎子だったのだが、女房同士の伝え聞きでいつの間にか冬の君がそう言ったことになってしまっていた。元から蛍宮家になじまない冬の君にいい印象を持っていなかった女房たちが、そう勘違いするのも無理はなかった。
 黙ったまま拳を震わせている椿の宮に、どうしていいのか分からず女房たちも黙っていると、ふいに萩の宮姫の先触れが来て、大君さまがおいででございますがいかがなさいますかと恐る恐る声をかけた。さっき文箱を投げた時の音が聞こえていたようだった。椿の宮が伏せていた畳から顔を上げると、よいからおどきなさいという萩の宮姫の声が響いた。
「姉上」
 椿の宮が涙の残る目で萩の宮姫を見上げると、萩の宮姫は御簾を押して隙間から母屋に入った。何の騒ぎなの。いつもは優しげな姉が静かに、それでも怒りをたたえた目で自分を見ていて、椿の宮が目をそらすと、萩の宮姫は椿の宮のそばに片膝をついた。
「冬の君のことを聞いたのね? ごめんなさい、あなたが戻るまで引き止めたかったのだけど…でも、冬の君を自分の物のように思うのはよくないわ」
「姉上は平気ですか。あいつがあっちこっちにたらい回しにされて…やっと落ち着いたのに、父上が見つかったからと言って」
「…平気ではないわよ」
 椿の宮の体を助け起こすと、萩の宮姫は大きく息をついた。でも、それは左大臣どののせいではないでしょう。小さな、それでもしっかりした声で付け加えて、萩の宮姫は椿の宮の目をジッと見つめた。
「まだ小さいのに大人の都合に振り回されて、可哀相に…できれば、うちにずっといてほしかったわ。でも、本当の父上が見つかったのよ。左大臣さまも馨君さまもお優しい方だし…縁の薄いこちらにいるよりも、ずっと幸せになれるわよ」
「…」
「たとえうちに住んでいなくても、あなたは冬の君のいい友達じゃないの。これまでと同じように、これからも冬の君の力になっておあげなさい。冬の君だって新しいお邸でまだ戸惑っていることも多いでしょうし…」
「嫌だ」
 短く吐き捨てるように言って、椿の宮は顔を背けた。二の宮。萩の宮姫が咎めるように呼ぶと、椿の宮は立ち上がって塗籠の中に駆け込んだ。二の宮! 萩の宮姫の声が中まで届いて、椿の宮は耳を塞いで中でうずくまった。
 冬の君…本当にいないのか。
 父上の勧めだからって、北山になど行くのではなかった。行かなければ力づくでも冬の君を…いや、冬の君が自分で望んだんだ。ここよりも…俺よりも左大臣家を。今よりもよい暮らしを、一月に一度ぐらいしか訪れのないような父上を。
 …会いになど、行ける訳がない。自分の膝に顔を埋めて、椿の宮はギュッと目を閉じた。本当はずっと我慢してたのか。俺との逢瀬を…俺に触れられることを。ずっと俺と共にいると言ったのに。頭がガンガンと痛んで、椿の宮は唇を噛み締めた。そこはすぐに血がにじんで、鉄のような味がした。しばらくそっとしておいてちょうだい。塗籠の外で萩の宮姫の声が響いて、椿の宮は震える体を感じながら何度も呼吸を繰り返した。

 
(c)渡辺キリ