玻璃の器
 

 明け烏の声が響く頃、男は帰らねばならない。
 これまで堪えてきた思いに比例して馨君を抱き続けていた水良も、明け方に近づく頃には馨君の腕に抱かれてうとうとと眠っていた。反対に板張りの床で水良の下敷きになっていた馨君の方は、体の節々が痛んで一睡もできずにいた。
 人がこんなに眠れないっていうのに、気持ちよさそうに寝ちゃって。
 仰向けに寝転んでいた馨君は、指先に触れる水良の髪を無意識になでながら細く息をついた。こんなに満ち足りた気持ちになるなんて、知らなかった。考えながら目を閉じると、それから馨君は目を開いて傍らの水良を見た。
「水良…水良」
 馨君が鳥の声を聞いてだるい身を起こし、水良を揺り起こすと、水良はゆったりと目を開いた。馨君。愛おしそうに呼んだ水良の声に胸が切なく疼いて、わざと振り切るように馨君はもう起きないとと囁いて水良の頬をなでた。
「嫌。今日はここにいる」
「バカ…忍んできた意味ないだろ、それじゃ」
 呆れたように馨君が言うと、水良はだって…と呟いて馨君の体に腕を回した。まだ衾の中で素肌をさらしていた馨君の足も腹もすべすべで、気持ちよさそうに何度も手を往復させて水良はうっとりと目を細めた。
「馨君…俺をどう思ってる?」
 ふいに尋ねられて、馨君は真っ赤になって水良の手をつかんだ。もう起きないと双海が来てしまう。せめて袴ぐらいは履いておかないと。衾から抜け出して床に落ちていた袴や単衣をたぐり寄せている馨君を見ると、水良も起き上がって後ろから馨君を抱きしめた。
「俺を好きか? 俺を愛してる?」
「…もう、バカなこと言ってないでお前も袴履けよ」
「バカって何だよ。ちょっとぐらい言ってくれたっていいじゃないか」
 ムッとして水良が言い返すと、馨君はこれだから宮さまは…と頭の中でぶつくさ言って手に持っていた自分の単衣を水良に放った。それには馨君の体についた香の匂いが移っていて、水良がきょとんとすると、馨君は立ち上がって袴を履きながら答えた。
「単衣、交換するんだろう」
「情緒も何もないなあ」
 苦笑して水良は馨君が自分の単衣を着込むのを見てから、馨君の単衣を羽織った。いい匂いがする。嬉しそうに袖に鼻を押しつけてから水良が馨君の袴の紐をしばってやると、馨君は慌ててそんなに固く結ばなくてもいいのにと水良の手をつかんだ。
「いいんだ。誰にもこの紐を解かせぬよう、まじないをかけてる」
「誰が解くって言うんだ、誰が」
「兄上」
 水良が真顔で答えると、馨君は言葉を失って水良を見つめた。本気だろうか…冗談、などではないな。馨君が返事もできずにただ水良を見ていると、水良は単衣を羽織ったままの姿で立ち上がり、馨君に腕を回して抱きしめた。
「馨君、お前は普通にしていてくれ。すぐ顔に出るんだから」
「もう覚悟を決めたのだから、意地でも押し通すさ」
 目を伏せて馨君が答えると、水良は黙って馨君のまぶたに口づけた。頬に、唇にそっと自分の唇を押しつけると、そのまま舌を伸ばして水良は馨君と口づけを交わした。
「好きだよ。今夜、また来る」
「…うん」
 珍しく素直に頷いた馨君に、水良は嬉しそうに笑った。水良さま、お起きになっておられますか。妻戸の外から双海の声が響いた。名残惜しそうにもう一度水良に口づけると、馨君は水良から手を離して着替えを手伝ってくれと双海に声をかけた。

 
(c)渡辺キリ