玻璃の器
 

 来る時と同じように武官束帯を身につけた水良を牛車で送り、戻ってきた熾森の手にはもう後朝の歌が握られていた。
「若君さま、ご冗談も大概になさいませよ。新婚ごっこじゃあるまいし」
 かんかんに怒っている熾森から結び文を受けとると、馨君は真っ赤になっていいから放っといてと頼んだ。冗談も何も、もう事は起こってしまったのだから。熾森の視線を避けて立ち上がると、馨君は結び文をガサガサと開いた。

  叶わじと思いし冬の山氷室 たぎつ心に今やとくらむ

 …誰が山氷室(ひむろ)だ、誰が。耳の先までカアッと赤くなって、馨君はため息をついた。やっぱり下手くそだ、人のことなんて言えないけど。脇に控えてクスクスと笑っている双海に、馨君は硯箱を出してと頼んだ。

  夏にこそ開く氷室の削り氷も 飽く心なき君を思えば

 今はもう秋だっていうのに『飽き』ずに削り氷を求める心をからかった歌だった。これだけでは今夜またぶつくさ言われてしまう。うーんと呻いて、馨君は大らかな字でもう一首書きつけた。

  幾年にとくる白雪流るれば 君に届けし山の葉の船

「これを、お前の手で間違いなく持って行ってくれ」
「私はあなたさまの参内のお伴がありますゆえ」
「今日は物忌みだ。頼む」
 馨君が文を結んで差し出すと、全く…とため息をついて簀子に控えていた熾森は文を受けとって立ち上がった。
「以前は自分から物忌みだとか言って、参内をおやめになることなどありませんでしたよ。全く…どこの怠け者の影響だか」
 痛い一言を残して、熾森は簀子をドタドタとわざと音を立てて歩き出した。そんなこと言ったって、腰骨の辺りはすりむけてヒリヒリするし、腕は痛いし。ムッとして腰をさすると、馨君はぷいっとそっぽを向いて衾をめくった。さあ寝よ寝よっと。そのままにしてあった衾の中にまた潜り込んで目を閉じると、昨日の気疲れも手伝って馨君はすぐに眠りに落ちた。
 水良の単衣の香りに包まれていたせいか、水良の夢を見た。
 まだ幼い頃の水良だった。今年、初めて咲いた朝顔の花だと、摘んですぐに持ってきてくれたのだった。体温の高い小さな手でギュッと握りしめていたから、三条邸に着く頃にはもう萎んでしまっていた。その花びらをめくって、二人で頭を付き合わせて中を覗いた。まるでいけないことをしているみたいにドキドキした。
 水良、俺はあの頃から、お前を好きだったのかもしれない。
 ずっと好きだったのかもしれない…だから、他の姫の噂にも心動かず、誰にも通うことなく大人になってしまったのかもしれない。目が覚めるとすでに日は高く登っていて、廂に置かれた香壺箱に気づいて馨君は女房を呼んだ。
「目を覚まされましたか。朝餉をお持ちしましょう」
「頼む…あれは?」
「佐保宮さまより言づかってきたと、熾森が置いて行きました」
「熾森は?」
「冬の君さまの参内のお伴で、内裏へ行かれましたよ」
「怒ってただろうな」
「ええ、もう。物忌みでお休みするなど、お殿さまでもお使いになられる手でございますのに、熾森は真面目ですから」
 女房が笑いながら答えると、仕方ない、今夜は別の者に迎えを頼もうとため息をついて、それから馨君は赤くなった。何乗り気になってんだ、俺も。こんな危ない橋を渡るようなこと…。
「あの…香壺箱を持ってきてくれる?」
 馨君が頼むと、女房ははいと答えて香壺箱を捧げて馨君の前に置いた。何が入ってるんだろう。まさか三日夜の餅じゃないだろうな…。馨君が恐る恐る蓋を開けると、中には椿油と椿の葉が入っていた。
 山の葉の船…にかけた訳じゃなかろうな。
 今朝、贈った歌を思い出して、馨君は首を傾げて椿の葉を手に取った。椿油は贈り物として、多少苦しくとも分からなくもないが、葉っぱの方は…。首を捻ったままツヤツヤとした葉を眺めている馨君を見て、女房はハッとしたように声を上げた。
「馨君さま、ひょっとしてどこかお怪我をなさったのでは!? 大変ですわ!」
「え!? 何で!?」
 まさか突っ込まれた尻が痛いとも言えずに馨君が真っ赤になって尋ねると、女房は香壺箱を取り上げてオロオロしながら言った。
「椿の葉を蒸し焼きにして椿油と練り合わせると、擦り傷や切り傷の薬ができるのでございます。あら、でもどうして佐保宮さまから…」
「いっ、いいから箱を持って下がってくれ。どこも怪我なんてしてないから」
「でも…」
「大丈夫だから…あ、双海に、双海に後で私の所へ来るように言ってくれ。夕餉まででいいから」
 馨君が言うと、女房は不承不承に香壺箱を持って下がって行った。
 あいつ…人のこと何だと思ってんだ。
 確かに、死ぬ切れる出せってわめいたのは俺の方だけど。
 ムッとしてまた衾の中に潜り込むと、ふて寝を決め込んで馨君は目を閉じた。好きって大変だな…丸ごと受け止めなきゃいけないんだもん。大事だ。ため息をついてジッと目を閉じているといつの間にか睡魔が襲って、二度目の眠りにまどろみながら馨君はまた水良を思った。

 
(c)渡辺キリ