物忌みということで人が訪れることもなかったおかげで、夕方までぐっすりと眠って馨君はようやく日が落ち始めた頃に二度目の起床をした。時々、大あくびをしては女房に見られなかったか周りをそっと見回して、それから馨君は双海を呼んだ。
「お疲れになっておられたのでしょう。つい先刻、冬の君さまがおいでになられたので声をおかけしたんですけど、もうぐっすりお休みになられていて」
「そうだったんだ。気の毒なことをしたかな…」
「いいえ、ご兄弟ですもの。冬の君さまは気にしていらっしゃいませんでしたわ。馨君さまがお目覚めになられたらこれをお渡しするようにと仰って、寝殿へ戻られました。何でも春宮さまから言づかってきたとか」
「え、惟彰さまから!?」
驚いて馨君が文を渡すように頼むと、双海は花のついていない藤袴に結んだ文を捧げて馨君に渡した。春宮さまから文が来るなんて久しぶりだな…まさか、夕べのことが知れたんじゃ…。眉をひそめて馨君が急いで文を開くと、中には歌とつれづれに書きつづったような柔らかな惟彰の字が並んでいた。
我が庭に咲き誇りけり紫の藤袴こそ今はいずこや
だらだらっと冷や汗が背筋を落ちて、馨君は歌を読んだ所で息を呑んだ。私の庭に咲いていた紫色の藤袴は、今は一体どこに咲いているのだろう。そんな意味だったが、転じて、馨君が内裏の惟彰の元にはいない今、どこにいるのだろうと問いかける歌だった。
ひょっとして、水良のことがもう耳に…。震える手で文を開いて次を見て、馨君は体中から力が抜けてホッと息をついた。
そこには夕べ、蛍宮家で馨君が萩の宮姫と音を合わせたことが書いてあった。萩の宮姫は琵琶の名手と聞いているが、私の琵琶もなかなかのものだよ。今度は梨壺へ笛を持って来てほしいと書かれてあった。何だよ、脅かすなよ。文を持ったまま衾の上に手をつくと、馨君はもう一度文を眺めて息を吐き出した。
申し訳ありません…惟彰さま。俺は…もうあなたに応えることはできない。
愛おしくてたまらない人がいるのです。双海に頼んで硯箱を取ってもらうと、馨君はきちんと文机に向かってため息まじりに頭をひねった。ただでさえ和歌は苦手なのに、水良のことは出さず、惟彰に期待を持たせず返歌する技量はあいにく持っていなかった。
「そうだ、物忌みなんだから返事は明日でいいんじゃないかな」
「他の方ならそうかもしれませんが、恐れ多くも春宮さまからのお文ですもの。すぐに返された方がよろしいかと存じます。若葉さんならこう仰るのでは?」
そばに控えていた双海が答えると、馨君はそうだよなあとため息をついた。早く返さないと、水良が来てしまう…それはまずい。
ええい、俺の和歌下手は春宮さまもご承知の上だ。藤袴は三条邸で咲いておりますが、いずれ梨壺にも訪れましょうとだけ書いて返そう。墨をたっぷりすって料紙に返事を書くと、それに庭で摘ませた藤袴を入れて折り畳んだ。
「これを頼む。それからあの…着替えを」
「はい」
「香を薫きしめてくれ。髪も結い直したいし、あまり時間がないので、急いで」
「分かりました」
クスッと笑って双海は文を受けとった。赤くなって横にあった脇息にもたれると、馨君はまだ上がったままの格子を見上げ、薄暗くなってきた庭に視線を向けた。
湯を使った後、水良の単衣を脱いで自分の香を薫き込んだ単衣に着替え、馨君は双海に頼んで髪を結い直していた。丁寧に櫛で梳いてからギュッと強く髻を結い上げ、烏帽子をかぶって白い文の入った袿を着込んだ。直衣の方がよくないか。馨君がそわそわと落ち着かない様子で言うと、双海は袖で口元を隠してホホホと笑った。
「佐保宮さまは、馨君さまの袿姿がお好きだとか。いつもきちんとしていらっしゃるので、少し打ち解けた感じがおよろしいのでしょう」
「恐れながら、直衣では脱がせにくうございますから。佐保宮さまは器用なお手をしてございませんもの」
夕べ、宿直をするはずだった女房が小声で囁いた。え…と驚いて馨君が振り返ると、女房はニヤリと笑ってそばに控えた。
「な…お前、なぜ知ってる」
耳の先まで真っ赤になって馨君が尋ねると、女房は同じように驚いている双海を見てから答えた。
「今朝方、佐保宮さまをお見かけいたしましたし、その…お声が」
「こ…声!? 声って、俺のか!?」
「申し訳ございません。ですが、私は佐保宮さまがお小さい頃から知っておりますものですから…その、何だか嬉しくて」
ねえ。双海に向かって同意を求めるように言った女房に、双海は慌てて言葉を添えた。
「そうでございますわ。私も、佐保宮さまに姫君をとどこぞの姫の名が挙がるたびに、馨君さまに勝るご器量の姫さまなどおられる訳もなしと思っておりましたわ!」
拳を握って力説する双海に、俺は男なんだと今さら断れる雰囲気でもなく馨君は真っ赤になった顔をふいとそらした。いいから扇を取ってくれ。恥ずかしげにまつげを震わせて言った馨君の手に、双海は今朝から見繕って用意していた趣味のよい扇を持たせた。 |