その夜、水良が三条邸に入る前に、西の対の女房の半数が寝殿へ移された。
水良が通っていることが万が一にでも外にもれたら大変だと、馨君によって口の堅い信頼できる女房を選びに選んで残されたのだ。残りの半分の女房たちにも進んで打ち明ける訳ではなく、ただ名を出すのが憚られる方だからということで、姿を見かけても黙っているようにとそれだけ告げた。
胸元に扇を挿し、昨日よりは清らげな格好で文机に向かっていた馨君は、そのまま半刻ほど座っていた後、業を煮やして足を崩した。何なんだ、あいつは。来るって言ったくせになぜ来ない! とっくに迎えの車が戻ってきてもいい時刻なのに。イライラと立ち上がって馨君が格子を開けてみようかとうろうろしていると、ふいに西側の妻戸が開いて双海がそこに控えた。
「お着きにございます」
「ごめん、遅くなって」
双葉を踏み越えんばかりの勢いで中に入ると、水良は焦ったような表情をしていた。振り向いて双海にありがとうと礼を言うと、水良は参内する時に着るような大君姿のままで、馨君は驚いて水良を見上げた。
「お前、束帯は?」
「さっきまで梨壺にいたんだ。それで東一条邸に戻ったら牛車が来ていたので飛び乗ってきた。お前、物忌みだと言って休んだんだろう。なのに束帯で出歩いてるなんておかしいと熾森に言われて」
「熾森が行ったのか? あいつ今朝は文句言ってたのに」
「外にもれればあっという間に噂に尾ひれがついて広まるから、他の従者になど任せてはおけぬ!とか言っちゃって、青筋立ててたよ。そんなことより馨君…」
横から抱きしめられ、我慢できないとでも言うように頬に口づけられて馨君は思わず水良の肩を押さえた。み、水良、ちょっと待って。赤くなって馨君が水良を見上げると、そのまま袿の胸元に手を差し入れて水良は馨君の耳に唇を這わせた。
「あ……ちょっと…まっ、あ!」
「一日中、お前の体がちらついちゃって…なあ」
「え?」
「俺って悪人だ。梨壺へ行って、兄上の前で何食わぬ顔をして笑えてしまったよ」
ふっと動きを止めて囁いた水良に、馨君はジッと水良の目を見つめた。水良は目を伏せて、それから許しでも乞うように恐る恐る馨君の目を見つめ返した。バカだな、お前は。水良の目を見つめて囁くと、馨君は水良の頬をそっと手で触れてその唇に口づけた。
「本当の悪人は、そんなことで気に病んだりしないよ」
「…」
「水良…俺も。俺もずっと一日中、お前を思ってた」
二人の衣が重なって衣擦れの音を立てた。袿の上から馨君の体をギュッと抱きしめると、水良はお前がいればいいと呟いた。その小さな声が切なくて、馨君は水良の背中に腕を回して抱き返し、そのままゆっくりと目を閉じた。
後ろめたさを感じながら、それでも離れがたいなんて。
「お前を思っていたよ」
馨君が繰り返すと、水良はうんと頷いて笑った。こうして抱き合っていることすら不思議に思えた。そろそろと身を預けて馨君が目を開くと、水良は馨君の体を抱いて熱い息を吐き出した。
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