玻璃の器
 

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 年が明けると、馨君は十六歳になった。
 兼長が左大臣となってから初めて新年の大臣大饗が行われ、常にも増して忙しい正月で、馨君は寝る間もなく内裏と三条邸を往復する日々が続いていた。追儺が近づくにつれ慌ただしくなり、なかなか会えない日々をぼやいていた水良も、正月が来ると自ら親王として大臣家で饗応に招待されたり内裏の正月行事に参加したりで、東一条邸にも戻れず藤壺に泊まり込んでいた。
 正月七日に紫宸殿で行われる白馬節会で、左右馬寮の白馬が次々と二十一頭、主上や東宮の御前へ引き出され、続いて群臣たちを招いた宴が催された。去年は侍従として主上の端近に控えていた馨君だったが、今年は左大臣家の一の君という扱いで、兼長の側で他の大臣や大納言たちと談笑していた。新年の行事が終われば絢子が中宮として立つことが決まっていて、藤原家の威勢もますます勢いづき、十六歳になって大人らしくなった馨君の艶やかさも手伝って、宴に参加している臣下や親王家、宮家の人々も羨ましいばかりの華々しさよと馨君の行く末を讃えた。
「今年も春宮さまには、ご健勝で心穏やかな一年になりますよう、お祈り申し上げております」
 きちんとした武官束帯に、参賀のために作らせた特別な織りの袍を身にまとった馨君は、主上に続いて惟彰の前に平伏して今年何度目かの挨拶した。ありがとう。そう言って目を細めた惟彰の視線を感じながら、馨君は目を伏せたまま面を上げた。
「梨壺も寂しがっているから、時々は内裏に遊びにきて下さい」
「…はい」
「冬の君は今年も殿上童として内裏へ上がるそうだね。あの子はもの静かで、馨君が子供の頃に似てないね」
「二の君は頭もよく、大人びていらっしゃいますから」
 言葉少なに馨君が答えると、惟彰はそうかと返事をして馨君をジッと見つめた。その真っ直ぐで優しげな視線を感じると背中にじわりと冷や汗が浮かんで、馨君が言葉を探していると、惟彰は少しだけ身を乗り出して馨君に囁いた。
「内密の話があるから、今日、梨壺へ寄ってくれないか」
 馨君が驚いて惟彰を見上げると、惟彰は何も言わなかったかのようないつも通りの表情でにこりと笑みを浮かべた。慌ててまた馨君が平伏すると、主上に挨拶を終えた源大納言が馨君に小さく礼をした。源大納言にも丁寧に礼をしてから下がると、眉を寄せたまま馨君は兼長の元へ戻った。
「父上、春宮さまと何か話されましたか」
 右大臣と談笑していた兼長は、上機嫌で何かとは?と顔を上げた。馨君が隣に片膝をついて座ると、右大臣が馨君に視線を向けて言った。
「藤壺さまの話ではありませんか。主上が十年以上も后を立てずにおられたのは、兼長どのが大臣になるのを待ち、藤壺さまを中宮にお立て遊ばされるためだろうと、専らの噂ですよ」
「いやあ、そのようなことは」
「私も孫娘を惟彰さまか佐保宮さまにと思っておりましたが、もう寄る年波には勝てませぬ。後見の私が職を辞して出家などしてしまえば、残される孫娘が不憫でございますからなあ」
「前左大臣入道どのも、そのようなことを仰っておいででした。私がご後見差し上げられればよいのですが、梨壺さまのこともありまして、とてもとても…」
 苦笑した兼長に、左大臣どのも大変でございますなと答えて右大臣は笑った。藤壺さまのことだろうか…それなら、父上も呼ばれるだろう。それとも外聞を憚るのでここでは言えないような話なのだろうか。少し考えてから、馨君は女房を呼んで酒を持ってくるように頼んだ。
 水良のことなら…水良も呼ばれるはず。
 まだ、知られていないことを祈ろう。失礼いたしますと丁寧に頭を下げてから立ち上がると、馨君は酒を運んできた女房と入れ違いに座を辞した。

 
(c)渡辺キリ