宴が終わり、参加していた人々がほぼ全員退出した頃、馨君は欠伸をかみ殺しながら梨壺へ向かった。
いくら着慣れているとはいえ、夜中に近い時刻では武官束帯が重く感じられた。とりあえず惟彰の元へ向かう前に芳姫の所へ行き、女房に頼んで宿直の時に使う衣冠に着替えた。ようやくほっと息をついて女房を惟彰の元へ知らせにやると、お待ちでございますのでお早くという返事があり、馨君は緊張を背中に感じながら立ち上がった。
「このような時刻になり申し訳ございません、春宮さま」
馨君が簀子に平伏して言うと、御簾の中にいた惟彰が眠そうだなと言って笑った。いえ、そのようなことは。馨君が慌てて答えると、惟彰は立ち上がって扇で御簾を押し、中へ入るよう命じた。
「しかし、私はまだ近衛少将の身。春宮さまと座を共にするなど分が過ぎまする」
「いいから入りなさい。そこは冷えるだろう。私も早く温まりたい」
真面目な馨君の言葉に苦笑して、惟彰は女房に格子を下げるように言った。馨君が失礼つかまつりますと言って中に入ると、女房が格子戸を下げ、失礼いたしますと言って下がっていった。
「…惟彰さま、内密の話とか」
母屋の隅に控えた馨君が視線を伏せたまま尋ねると、惟彰は畳の上に腰を下ろして脇息にもたれた。
「馨君があまりに来てくれないので、そう言えば飛んで来てくれるかと思って。最近はどこか下条辺りの姫にご執心だそうじゃないか」
「…お戯れはおやめ下さりませ。ただの噂にございます」
赤くなって答えた馨君に、戯れではないと笑ってから惟彰はジッと馨君を真正面から見据えた。
「今、水良が藤壺にいることは知っているな。母上から文が来ただろう」
「はい。東一条邸の女房たちからも聞きました。内親王さま(倫子)がゴネ…お寂しがるのでなかなかお屋敷へ戻れぬと」
主のいない東一条邸で、のびのびしているような寂しいような妙な気分だと若葉からも文が届いた。水良がいないなら行っても大丈夫だろうと、今日も女房たちの様子を見に節会の前に早朝から寄ったばかりだった。
「それは表向きでな、本当は母上から諭されているのだよ」
神妙な顔つきで呟いた惟彰に、馨君は怪訝そうに視線を上げた。意味を問うのも憚られて馨君が黙っていると、惟彰は手に持っていた扇を開いて目を伏せた。
「実は父上が、密かに高野で護摩を焚かせているのだ。母上が中宮にお立ちになることが決まってから、ご体調も少しは持ち直したが」
「本当でございますか!? それはいつ頃から」
普段、そんな素振りを少しも見せない主上の様子を思い出して、馨君が膝を進めて尋ねると、惟彰は顔を上げて馨君を見つめながら答えた。
「昨年秋の、行幸の前からだ。熱が出る日が続いて母上が侍医に見させたのだが、原因が分からぬ。物の怪のたぐいかとも思ったが…憑坐(よりまし)にも物の怪はつかず、僧正も陰陽博士もそれらしきものは見当たらぬと言っている」
「瘧や風邪では」
「それならとっくに母上や内親王にも感染っていよう。原因が何かは分からぬが、私は父上のお心を塞ぐ何かがあるのではと思っているのだ。それが気を病ませているのではと」
「悩み…」
何を悩むことがあるというのだろう。あの順風満帆そうに見える主上に何が。眉をひそめたまま黙って考え込んだ馨君を見ると、惟彰はため息をついて脇息から身を起こした。
「それで母上が水良を藤壺に留めて、毎夜、水良を諭されておいでなのだ。今の内に兼長の娘を正室に迎えよと。宮ではなく臣家の娘を一人、室に迎えなければならぬと」
ドキッとして、馨君は視線を伏せたまま袖の中で拳を握った。
皇族からではなく、臣家の娘を室に。それは水良に力のある後見を持たせるということ。
それを急ぐということは…水良を東宮に立てる動きがあるのだ。
主上がご退位遊ばされる。
言葉が出ずに馨君は息を詰めた。水良が東宮に…もし東宮として内裏へ戻れば、左大臣家だけじゃなく他の大臣家や公卿、宮家からも今まで以上に妃候補が出るだろう。いくら室は娶らぬと言い張った所で、形式的になどいくらでも体裁は整えられる。
そして何よりも…水良が内裏へ戻れば、今までのように会えなくなってしまう。
はらりと馨君の目から涙が一粒こぼれた。嫌だ…水良が妃を迎えるなんて。あの腕で他の姫を抱くなんて。
目の前が真っ赤になった。まだ起きてもいないことに嫉妬するのか、俺は。身の奥から吹き出した激情が体を包んで、叫び出したいのを必死で堪えて馨君は強く唇を噛み締めた。
「すまぬ」
扇を離して立ち上がると、惟彰は馨君の前に膝をついた。ただ肩を震わせて顔を背けている馨君の頬を眺めて、それから惟彰はギュッと眉を寄せた。それほど、水良を。言葉にして考えることは、それだけで屈辱的だった。
馨君、なぜ私を選ばなかった。
私が東宮の地位にあるからか。
私が水良と同じように妃を娶らず一人身でおれば、そなたは私を選んでくれたのか。
「馨君」
その華奢な肩に触れることもできずに惟彰が低い声で名を呟くと、馨君は顔を背けたままはらはらと涙をこぼした。その横顔はこの世の者とも思えないほど美しく、まるで妖しを見ているようで惟彰は思わず息を呑んだ。
「わ…私は、佐保宮さまがどなたを娶られようとも…春宮さま同様、お世話させていただく…つもりで…」
いつも言い慣れた台詞も、喉がつかえて言葉が出なかった。嫉妬の念で、自分が泣き続けていることにも気づかなかった。瞬きをして初めて自分が涙をこぼしていることに気づくと、馨君はハッとして惟彰を見上げた。
「惟彰さま! 私は誰のことも思うておりませぬ。佐保宮さまのことも、ただ筒井筒の君と」
顔を真っ赤にして言い募る馨君の言葉に、惟彰は息をひそめて黙り込み、それから分かっていると呟いた。その頬に残る涙の跡に、惟彰は触れなかった。触れれば泣いている意味を問うてしまう。聞かれれば馨君は答えなければならない。
その唇から、はっきりと聞きたくない。
「水良は…相変わらず妃はいらぬと言い張っているらしい。内裏へ戻るまでは、恐らく誰の所へも通うつもりはないのだろう。しかし、東宮ともなればそう勝手なことも言っていられまい…馨君」
「はい」
涙を袖で拭いながら馨君が返事をすると、惟彰はその耳元に小さな声で秘め事のように囁いた。
「私には左大臣家、権大納言家と後見がついている。水良がもし誰も娶らぬまま東宮になれば、力を持たぬ弱い立場に立たされるやも知れぬ。主上には他に女御との皇子はおらぬが、更衣の皇子を担ぎ出そうとする公卿が出るやも知れぬ。それに、兼長どのは母上ほどに水良を二の宮と思うておらぬゆえ、どうしても私や母上を優先させることも多かろう」
「父上は、佐保宮さまのこともご自分の甥のように思っておられます」
「思っていると口では言っても、実質的に一人では内裏を支えられぬ。馨君、私は宣耀殿とは上手くいっておらぬ。宣耀殿も私を恨んでいることだろう。しかし、行忠から援助を引き出すことはできなくもない。そなたはその間、水良がそなたの縁続きの姫を娶るよう、水良を説得してはくれぬか」
「…惟彰さま!」
「それが水良のためだ。そなたの言うことなら、水良も耳を傾けよう。頼む」
馨君の手を取って強く握ると、惟彰は眉をひそめたまま囁いた。東宮から臣下にこれほど大きな頼み事をしたと噂になれば、それを弱味と取る殿上人も現れ、東宮としての惟彰の地位が危うくなるかもしれなかった。それをあえて頼まずにはいられなかった惟彰の心情を思うと、馨君は首を横に振ることができなかった。
「…分かりました。水良さまに申し上げましょう」
血の気の引いた顔をわずかに伏せて、馨君は答えた。頼む。もう一度言葉を繰り返すと、ホッとしたように息をついて惟彰は馨君の手を離した。
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