玻璃の器
 

 本当に、水良のためか。
 私は水良が東宮となり、内裏へ戻ってくることを願っているのか。ぼんやりと梨壺の庭を眺めていた惟彰の後ろで、澪姫が弾く箏の琴の音が響いていた。澪姫は慎ましやかな性格ながら、東宮傅を父親に持つためか博識で、昼間は澪姫の所で漢籍や儒教の話をすることが多くなっていた。
 いつもは本や絵巻物を開いて活き活きとした表情で話し出す惟彰が、今日は澪姫の局に来るなり琴を所望した。楽はあまり得意ではないのでと一度は辞退した澪姫は、そなたの琴が聞きたいと惟彰に請われて女房が用意した箏の琴の前に座った。
 一曲、ゆっくりと弾き終えると、それまでハラハラしながら聞いていた実家から来た澪姫付きの女房たちが、ホッとしたように胸を撫で下ろした。澪姫が顔を上げると、惟彰は立ち上がった。
「春宮さま?」
「梨壺へ戻る。澪…すまないな。一日中、そなたの元でゆるりと過ごしていたいがそうもいかぬ」
「分かっておりますわ。どうぞお気にかけずにお出かけ下さいませ。澪はここでみなと絵巻でも眺めておりますわ」
 入内した頃に比べると明るい笑顔を浮かべるようになった澪姫を見ると、惟彰も目を細めてありがとうと囁いた。女房たちを従えて惟彰が廂に出ると、琴の爪を外しながら澪姫は小さく息をもらした。
 何かお悩みでいらっしゃる、そのお話を伺うこともできない。
 それならそばにいて、その間だけでもお心をお慰めすることしか…今の私にはできない。
「姫さま、宣耀殿さまがまたお里下がりを主上に願い出られたそうでございますわね。射来が終わればすぐにでも内裏を退出なさるそうでございます」
「そう」
 澪姫の年嵩の女房が小声で言うと、澪姫は返事をしてからまた琴の爪をつけた。ポンポンと琴を爪弾き出した澪姫に、女房が優しげな声で言った。
「姫さまもたまにはお里へ戻りたいとお思いになられることもありましょう。私が春宮さまに申し上げましょうか」
 奥ゆかしい澪姫が帰りたいなどと言い出せずにいると思ったのか、女房が気を使ってそう言うと、澪姫は琴を弾きながら首を横に振った。
「帰りたいなどと、一度も思ったことはないわ。春宮さまはお優しくして下さるし、芳姫さまもお話をしに来て下さって、私の方が四つも年上なのにまるで姉上のように励まして下さる。義母上も何かと気を配って下さるわ。私にはできることも少ないけれど、ここにいて春宮さまのお心を癒して差し上げたいの…」
「まあ姫さま…何て清らげなお言葉でしょう」
「帰りたくはないけれど、そうね…お父上にはお会いしたいわ。十五日粥にはお父上さまもこちらで一緒にと文を書きましょう」
「姫さまも女房たちと一緒に、お粥の杖でおいどを叩いていただくとよろしいですわ」
 クスクスと笑って若い女房が言うと、澪姫は赤くなって、まだ早いわと呟いた。正月十五日に七種粥をかきまぜた杖で尻を叩くと子宝が授かるという言い伝えがあった。澪姫が真っ赤になって袖で顔を隠すと、ホホホと朗らかな笑い声が局に響き渡った。

 
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