玻璃の器
 

「まあ、夕べ兄上がいらっしゃったの? 全然気づかなかったわ」
 竜田を相手に碁を打っていた芳姫が、女房の一人に言われて驚いたように声を上げた。
「宴の後で? 春宮さまの所へご挨拶にいらしたのかしら」
 好奇心一杯の目を綺羅綺羅させて芳姫が尋ねると、女房はご挨拶なら宴の時にされてましたわよと答えた。何かお話でもあったのでございましょう。脇で碁の勝負を見ていた小霧が言うと、芳姫は小霧に尋ねた。
「小霧なら知ってるわよね? 何かあったの?」
「いくら私でも、春宮さまがお人払いをされてお話されたことまでは分かりませんわ」
「ただ事じゃないわね、それは」
 芳姫が言うと、小霧はしまったという風に口を袖で覆った。私が申し上げたことは秘密にして下さいませ。小霧が困ったように言うと、芳姫は分かってますと笑って、それから碁石を打った。
「兄上と春宮さまの密談ねえ。何だか似合わないわ。父上はやってそうだけど」
「政の場では、誰にも聞かれぬよう話を進めなければならないこともございますもの」
 竜田が返し手を打ちながら答えると、それもそうだけどと笑って芳姫は碁盤を眺めた。いつの間にか竜田が優勢になっていて、ため息をついて次の手を考えていると、惟彰の先触れの女房が簀子に控えた。
「梨壺さま、春宮さまがお越しでございます」
「あら、そう? お早いわね」
 頬を赤くして碁盤から離れ下座に移って芳姫が控えると、ご機嫌はいかがですかと言いながら惟彰が母屋に入った。芳姫がお気遣いいただきありがとうございますと答えると、惟彰は上座に腰を下ろしてあぐらを組んだ。
「碁を打っていたの。どなたと?」
「竜田とですわ。最近、腕を上げられて…」
「本当に? あなたもお強いと思っていたけど」
 笑って惟彰が言うと、周りの女房たちが碁盤の石を動かさないように母屋の隅に運んだ。小霧と竜田を残して他の女房たちが下がると、芳姫はおそばに行ってもいい?と遠慮がちに尋ねた。
「どうして? そんな気遣いは私たちの間では無用かと思っていたけど」
 惟彰がおかしそうに答えると、だって…と視線を伏せて芳姫はそろそろと膝で進んだ。小霧と竜田が顔を合わせて忍び笑いをもらし、さやさやと衣擦れの音を立てながら下がって行った。目の前に座る芳姫をジッと見つめると、惟彰は不思議に思いながら芳姫の手を取った。
「芳姫、あなたを初めて見た時、兄上に似ておられないと思ったけれど…こうして見ると、やはりどことなく似ているね」
「まあ、そんなことを仰るのは惟彰さまだけですわ。女房たちはみな私と兄上が噂ほどには似ていないと驚きますのに」
 からかうように答えた芳姫に図星をさされたような気がして、惟彰はそんなことはないよと自然に聞こえるように穏やかに答えた。けれど…胸の内で考えながら芳姫の髪を撫でると、惟彰はその涼やかな唇に口づけた。
 やはり、心のどこかで求めてしまう。
 芳姫に申し訳ないと思いながらも…芳姫が妹君でよかったと思っている。芳姫を一の妃と扱えば、馨君は私を無視できないだろう。
 浅ましいことだ…芳姫の小柄な肩を抱きしめると、自分に身を預けている芳姫の艶やかな髪を見て惟彰は小さくため息をついた。水良が東宮となれば、馨君とは頻繁に会えなくなる。でも、水良が東宮になったらやはり馨君は水良の元へ行ってしまうのではないか。お仕えするのだという大義名分で。
「…惟彰さま?」
 何度も髪を梳く惟彰の手が止まって、芳姫が顔を上げた。芳姫が皇子を生めば、間違いなく水良ではなくその皇子が東宮に立つだろう…そうなれば、ゆるぎない外戚となる馨君の将来は安泰なのだ。危うい恋という絆で結ばれた水良を主上にするよりも。
「惟彰さま、佐保宮さまのことをお考えですの?」
 ふいに芳姫に言われて、惟彰はビクッとして顔を上げた。なぜ? 惟彰が尋ね返すと、芳姫は驚いて申し訳ありませんと身を起こした。
「藤壺へお正月のご挨拶に伺った時、義母上さまが佐保宮さまのことを少し仰っておいでだったし…夕べ、兄上がいらしたと女房が」
「そう…けれど、違うよ。いくら弟宮でも、そなたを前にしているのに他の者のことなど考えぬ」
 笑いながら惟彰は答えた。黙って芳姫が目を閉じると、惟彰はその白い頬に口づけ、芳姫を抱き寄せて熱い息を吐いた。芳姫に皇子が生まれれば、私はどう思うのだろう。芳姫の懐に手を入れると、柔らかな乳房に触れて惟彰はゆっくりと目を閉じた。

 
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