玻璃の器
 

 白馬節会が終わって二日後には県召の除目が始まる。その前にずっと留守にしている東一条邸へ戻らねばと言いおいていたのにまた絢子に引き止められて、水良はずっと仏頂面で腕を組んだまま庭を眺めていた。
 連日、夜になれば絢子が女房を伴ってやって来て、梨壺へ入る前に妃を娶れと耳にタコができるぐらい言いつのる。
 ほんのひととき、本当に好きな人と共に過ごしたいというだけの望みが、なぜ果たせないんだろう。
 今日も昼の御座から戻ってすぐに床についた主上のそばで、せめて宿直をと清涼殿にやってきた水良は、日が暮れて格子を閉め始めた女房たちの優雅な動きを眺めながらため息をついた。早く三条邸に行きたい。馨君も忙しくて疲れているだろうが…せめて腕に抱いて、二人で眠りたい。
 子供の頃のように。
 いつでも、それが叶えばよいのに。
「どなたかよい方のことでも思っておいでかな」
 額に固く水気を絞った布を乗せていた主上が、水良の横顔を見てふふっと笑った。驚いて振り返ると、水良はお目覚めでしたかと小さな声で囁いた。
「母上にも言われましたが…私には思う姫などおりません」
「絢子に? 何て言われたの」
 主上が額に乗っていた布を取りながら言うと、水良はそれをつかんで角盥の水に浸して絞った。そのようなことを佐保宮さま手ずからと女房が慌てて手を差し出すと、水良はよいからやらせてくれと言ってまた主上の額に布を乗せた。
「冷たい。いい気持ちだ」
 目を閉じた主上の頬は熱で赤く火照っていて、水良は心配気に眉をひそめた。外にもれると大騒ぎになるからと自分にも知らされなかった主上の発病は、水良が藤壺に泊まるようになり、夜のお渡りがないことからようやく知ることになったのだった。つくづく親不孝者だな、俺は。水良が今までの不忠義を改めるように主上の顔を眺めると、主上は目を開いて水良をジッと見上げた。
「水良…みなに下がるよう言ってくれ。話しておきたいことが」
「いけません、父上。お体に触ります」
「そんなことを言って、明日ぽっくり死んだらお前を恨むぞ」
 半分ほど本気の表情で、主上が小さな声で囁いた。水良がほんの少しだけ下がっていてくれるかと女房たちに命じると、大勢いた女房たちが静かに頭を下げて出て行った。
 二人きりになると、水良は主上の枕元にあぐらを組んで座った。父上。水良が声をかけると、ゆっくりと瞬きをしてから主上は水良を見つめた。
「水良、すまなかった」
「え?」
 水良が聞き違いかと視線を上げると、主上は仰向けのまま目を細めていた。父上? 優しげな声で水良が促すと、主上はふと水良へ視線を向けて微笑んだ。
「本来なら、お前が春宮となるはずだった。そなたの母上には当時の太政大臣が後見についていたから…申し分なかったのだ」
「しかし、兄上が先に春宮となられていたではありませんか。それにおじいさまも、同じ立場の弟が兄を差し置いて上に立つことは世の乱れを招くと仰ったのでしょう」
「それも、藤壺がお前を引き取ったため、上皇の立場としてご判断されたまでのこと。前太政大臣が無欲な方で、お前の母が亡くなってすぐ、お前を藤壺に託して仏門に入られたために争いも起きずに済んだが、藤壺の人柄を知らぬ輩は、今でも惟彰を東宮に立てるためにお前を引き取ったと口さがなく言う者もいる。お前が太政大臣家に引き取られていたなら、間違いなく惟彰を廃太子とし、お前が東宮となっていたはずだ」
「私は春宮になりたいと思ったことは一度もありませぬ」
 ムッとして水良が答えると、主上は一瞬きょとんとし、それから笑った。久しぶりにはははと声を上げて笑うと、布が落ちないように手で押さえながら目を細めて水良を見つめた。
「意外と本人はそのように思っているのか…いや、そうは言っても、やはり一度は主上にと夢見るものなのではないのか?」
「父上には申し訳ありませんが、私は窮屈なのはどうも苦手です。昼の御座に座って難しい話をするなど私にはできませんよ。兄上と違って頭が悪いですから」
 考えただけで気分が悪いのか、両腕を組んで顔をしかめたまま水良が言うと、主上はおかしそうにクックッと笑った。ひとしきり笑ってそれから視線を上げると、主上は水を飲ませてくれと水良に頼んだ。
「水良…もしこのまま私がよくならなかったら」
「よくなりますよ」
 主上の体を起こして杯についだ水を飲ませ、怒ったように答えた水良に、主上はふいに真顔になって言葉を続けた。
「いや、聞いておいてくれ。もしこのままだったら、私は退位して仏門に入りたい。私は罪深い身ゆえ…今生にいる間にお前の母上の供養をして差し上げたい。そうなれば惟彰が主上に立つだろう。惟彰に皇子がいない今なら、水良、そなたが次の東宮になる」
「…父上?」
「お前の血は正統なのだ、水良。母が内親王だからという理由だけではない…お前が生まれた時、私はすぐに退位してお前に位を譲るべきだったのだ。それを、赤子のお前のあまりの愛らしさに主上としての責を負わせるのが忍びなくて…つい時が過ぎてしまった」
「…」
 長年秘めてきて、今ようやく打ち明けるのだというように滔々と流れる言葉に、水良が黙り込むと、主上は水良にもたれていた身を起こして水良の肩をつかんだ。その力は病人とは思えないほど強く、水良が顔をしかめるのにも構わず主上は口を開いた。
「疑うてはならぬ。憎んではならぬ。裏切られたと思うても、恨んではならぬ。人を疑えば、二度とは戻れぬ所まで流されてしまう。永遠に失うことになる」
「父上、もう…お眠りに」
 興奮したように語る主上を落ち着かせようと、水良は衾をめくって主上を寝かせた。暖かいように首元まで衾をかけてずり落ちた布を拾う水良に、主上は大きく息をついてから目蓋を閉じて囁いた。
「水良、そなたの父は…私ではない」
 水良の手から、ぽとりと濡れた布が落ちた。
 水良が主上を見ると、主上は熱に浮かされたようにはあはあと小さく息をついていた。
「父上」
 すでに深い眠りに落ちた主上は、水良が声をかけても目を覚ます気配はなかった。

 
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