玻璃の器
 

 佐保宮退出の噂を聞いて、馨君が近衛少将としてきちんと体裁を整えた文を出すと、水良からの返事は来なかった。拗ねている訳じゃあるまいな。日が暮れても水良が来る気配はなく、東一条邸に戻ったばかりで疲れているのだろうかと馨君はそっとしておくことにした。
 次の日、参内の前に熾森に言いつけて東一条邸を訪れた馨君は、重い気分を引きずりながら中門から東の対へ向かった。そこで若葉から水良の様子を聞いてみようと、自室に使っていた所へ入って馨君は寝殿にいる若葉を呼ぶよう女房に頼んだ。
「申し訳ございません、若葉は今、佐保宮さまにつきっきりで…」
「どうしたのだ、佐保宮さまは。まさかご病気か」
 馨君が尋ねると、女房は廂に控えたまま答えた。
「いえ、戻られてからずっと蝙蝠を出してご覧になられておいでで、それから夕べも寝ずにずっと絵を描いておられるのです」
「絵を? 夜通しか」
「はい。それで、若葉がお世話を」
「そちらへ伺ってもよいか、聞いてくれるか」
「かしこまりました」
 女房はゆったりと頭を下げてから立ち上がり、寝殿へ向かった。もう一人の女房に、大内へ文をと頼んで紙と硯箱を出してもらうと、近衛の陣に午後から参内する旨を書いて言付けた。
「馨君さま、佐保宮さまがお待ちですので、こちらへ」
 さっきの女房が戻ってきて告げた。馨君が立ち上がって、女房について寝殿に入ると、いつも水良が使っている母屋の御簾は巻き上がっていて、そこから廂や簀子にまで巻き紙が広げてあった。足の踏み場もないな。馨君が廂の端で立ち止まると、ちょうど水を汲みに出て来た若葉が気づいてパッと表情を輝かせた。
「若君さま! お久しぶりでございます」
 若葉の手も着物も墨だらけで、馨君が驚いてその格好はと尋ねると、若葉は笑って慣れたものでございますよと袿の裾をたくしあげて巻き紙を跨いだ。
「水良さまが絵をお描きになられる時は、いつもこうなのでございます」
「できあがったものを見せていただいたことはあったが…それで、水…佐保宮さまは?」
 馨君が尋ねると、ふいに母屋からここにいると低い声が響いて、手に筆を持ったまま水良が廂に出てきた。狩衣の袖を絞り、烏帽子をかぶって手を墨だらけにした水良は、眠っていないせいか目だけが光っているように見えた。馨君が息を呑んでその強張った表情を見上げると、水良は若葉に筆を渡した。
「少し休む。若葉も疲れただろう。付き合わせてすまなかった」
「いえ、若葉は水良さまの絵を描くお姿は好きですから。急いで片づけましょう」
「よい、このままで。俺が移る」
 水良が答えると、馨君は絵を広げてある母屋の方を興味深そうに覗いた。廂の端のわずかに空いた場所に座り角盥に張った水で手を洗うと、袖の紐を外して水良は狩衣を手早く脱いだ。
「若君さま、こちらへ」
 元三条邸の女房が、にこにこしながら馨君を促した。隣の間にしつらえた円座に馨君があぐらを組んで座ると、水良は単衣の上から白い直衣を着込んで高麗縁に腰を下ろした。
 昨日、本当に寝てないのかな。
 少しも眠そうに見えないけど。女房に白湯を頼んで袖を払うと、水良は真正面からジッと馨君を見つめた。馨君がその眼差しに少し赤くなって視線を伏せると、水良は女房が持ってきた白湯に口をつけてから控えていた女房たちに扇をパチリと鳴らした。女房たちがいなくなると、水良は脇息にもたれて口を開いた。
「ここに来たということは、内裏か兄上の使いか」
「…はい」
「言わないでくれ。お前の口から今は聞きたくない」
「水良」
「頼む…」
 目をそらしたまま、水良は重苦しい息を吐き出した。その目は赤く充血していて、馨君がジッと水良を見つめると、水良は脇息につっ伏した。息をひそめて黙り込んでいる水良の様子を窺うと、馨君はそっと近づいて水良の肩を抱いた。
「…内裏で何かあったのか」
 水良の体は寝不足のせいで火照っていた。それはほんの少し抱かれた時の熱に似ていた。馨君が水良の背中に頬をつけて静かに呼吸を繰り返していると、ふいに水良は身を起こして馨君を抱きしめた。
「水良…ここでは」
 たじたじと馨君が赤くなって押し返そうとすると、首を横に振って水良はそのまま馨君を押し倒した。人払いしたとはいえ、いつ来るか分からない昼日中の明るい母屋で、馨君は自分の体を強く抱きしめる水良の肩をつかんで囁いた。
「水良…?」
「しばらくでいいから」
 ギュッと眉根を寄せて、水良は馨君の胸にしがみついた。
 何があったんだ…ギュッと馨君の束帯の袖をつかんだ水良の表情を見て、馨君は息をひそめた。そのまま水良の背中に手を回してそこをさすると、水良はまるで術が解けたようにふっと眠りに落ちた。それでも動くと目を覚ましそうな気がして、馨君は何度も水良の背をさすりながら水良の寝顔を眺めた。

 
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