玻璃の器
 

 いくつも描かれた水良の絵は全て百鬼夜行で、広げた絵巻物を前に母屋に立ち尽くして馨君は息を殺した。
 人に災いを為すはずの異形の者たちはすべて救いを求めるような苦しげな表情をしていた。墨や絵の具が乾いているのを確認してからクルクルと巻いて、二階厨子に並べて置いてから馨君は振り向いた。
「水良、起きたのか?」
「うん…参内しなかったの」
 低い声で水良が尋ねると、すでに直衣に着替えていた馨君は笑って頷いた。今日は無罪放免だ。苦笑して最後の一巻の紐を結ぶと、馨君はそれを二階厨子の上に置いた。
「春宮さまに頼まれて来たんだから。説得できずに夜が更けてしまったと言って泊まればいい」
「なるほど、熾森が不真面目だと言って怒る訳だな」
 日が暮れかけた母屋の中は、お互いの顔がわずかに見えるぐらいに暗く翳っていた。失礼いたしますと言って女房が灯台に火を灯した。しばらく二人にしてくれと女房に頼むと、女房が下がって行くのを確認してから水良は二階厨子の文箱の中に入れてあった蝙蝠を取り出し、灯台の明かりにかざした。
「見てくれ」
「…?」
 馨君が蝙蝠を受けとって開くと、それは見たことのない手による歌が書かれていた。美しい字だな。たおやかで、きっと高位の姫の手なのだろう。馨君が歌に視線を走らせていると、水良は高麗縁に座った。
「それはおじいさまからいただいたもので、母上の形見だそうだ」
「え…本当に?」
 馨君がサッと顔色を変えると、水良は上目遣いに馨君を見て手を差し出した。蝙蝠を閉じてそれを渡すと、馨君は下座に膝をついて座った。
「でも、その歌は」
「母上が詠んだものだ」
「しかし」
「生まれてくる幼子が、主の腕に抱かれることのないよう祈っている…そのような歌を、母上が詠うはずがないと俺も思った。幼子とは誰か…主とは誰のことか」
 真っ直ぐに馨君の目を見つめた水良の瞳は、静かな光をたたえていた。馨君が黙ったまま水良を見つめ返すと、水良は言葉を続けた。
「ここからの話は絶対に人にもらしては駄目だ。兼長どのにも、梨壺どのにも…兄上にもだ。お前の魂にかけて誓うか」
 ほんの少し目を見開き、それから馨君はしっかりと頷いた。近くに来てくれ。水良が囁くと、馨君はそろそろと近づいて水良の膝に手を置いた。
「父上が原因不明の熱をお出しになって、昨年の秋頃からずっと寝込んでおられるのだ」
 馨君が頷いて目を伏せると、水良は知っていたかと呟いて馨君の手をつかんで言葉を続けた。
「公の場では無理にお元気そうにふるまっておられるが、清涼殿に戻るなり床に臥している」
「それでは、僧正を呼んで読経を…」
「すでに母上が手配している。だが…俺も宿直をしたが、物の怪が悪戯をしているようには見えぬ。物の怪の仕業なら、もっとずっと楽でいられたものを…」
 馨君の手を取り上げてそこに口づけると、水良は馨君の華奢な手を額に押しつけた。水良? 馨君が眉をひそめると、水良は目を開いた。
「父上が…俺の本当の父ではないと」
 ドクンと胸が鼓動を打った。
 馨君が水良の肩をつかんでその顔を上げさせると、水良はどこかぼんやりとしたような穏やかな表情をしていた。反対に血の気の引いた顔で水良の目を覗き込むと、馨君はかすれた声で尋ねた。
「それは…熱に浮かされて、何か別のことをおっしゃったのでは」
「俺だってそう思いたい。だが、この蝙蝠のこともある…あれから父上と二人きりで話す機会もないし、あったとしても俺からは聞けぬ」
 馨君の体にしがみつくように抱きしめて、水良はふいに取り乱したように聞けぬ!と声を荒げた。馨君が水良の頭を抱いてギュッと力を込めると、水良は涙の溜まった目で馨君を見上げた。
「俺の父上は誰なんだ、馨君。このまま東宮となったら俺はどうなる。主上の皇子でもないのに…誰の子とも分からぬ俺が主上となるのか。そのようなことが許される訳がない」
「水良、主上は他には何か仰っていなかったのか。父君のことや、母君のことを」
 馨君が尋ねると、水良は黙って首を横に振った。そのまま馨君の膝に顔を伏せて泣き出した水良の震える肩を、馨君は何度も優しくなでた。それでも頭がガンガンと痛んで、考えるのも辛かった。水良が主上の子じゃない…? それなら、水良は皇子ではないのか。
「水良、よく思い出せ。主上は何と仰られたんだ」
 精一杯優しげな声で馨君が小さな声で尋ねた。しばらく嗚咽をもらして震えていた水良は、ふとぼんやりとした視線を馨君に向けた。
「父上は…俺が生まれた時、主上の座を退き俺に譲るべきだったと」
 二人、視線を合わせると、息を呑んで黙り込んだままジッと見つめ合った。どういう意味だ…なぜ主上がそのようなことを。訳が分からず水良を問いつめたい気持ちをグッと押さえると、馨君は瞳を揺らして水良が言った言葉を頭の中で繰り返した。

 
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