疲れた…頭の芯が疲れて眠れない。
目を開いたまま、馨君は寝返りを打って腕を組んだ。今日は色んなことがあったな…目を閉じると萩の宮姫の琵琶の音と共に、蛍宮邸にいた頃の冬の君の固い表情を思い出した。辛い思いをしてきたのだろうな…馨君が目を閉じると、妻戸の外からほとほとと戸を叩く音が響いた。
「双海よ。宿直代わるって言ってたのに、遅くなってごめんなさい」
「もう、忘れてしまったのかと思ったわ。どちらにしても今日は局に泊まるからいいけど」
ひそひそと話す声が馨君の耳まで届いた。思わず笑いそうになって馨君が口元を押さえると、妻戸が開いて女房が入れ替わる衣擦れの音がした。ぐっすりとお眠りになっていらっしゃるわね。双海が確認すると、宿直に詰めていた女房が頷いた。
「本当にごめんなさいね」
双海の声と同時に、妻戸がパタンと閉じた。馨君がフーッと長い息を吐くと、一瞬ビクリとして、それから双海は戸口で耳を澄まして女房の足音が去って行くのを確かめた。
よし、大丈夫ね。
馨君さまに何も言わなかったのは申し訳ないけれど、かの方が言うなと口止めされたのだもの。あの方に口止めされて、一介の女房が差し出がましい口を挟む訳にはいかないものね。
理論武装に身を固めて、それから双海はそっとまた妻戸を開けた。するりと音を立てずに外に出ると、影からふっと武官束帯を身につけた若者が姿を現した。もう寝てる? 小声で囁いた若者が窮屈そうに老懸(おいかけ)の紐に指をかけた。中に入ってからお外しになって下さい。双海が慌てて言うと、若者は分かったよと笑ってから妻戸の隙間に体を入れた。
「しばらく…一刻ほど見張ってて。誰も来ないだろうけど」
「こんな時間ですもの。大丈夫ですわ…馨君さまも驚かれますわね」
「多分ね」
驚くどころか、腰を抜かすかもしれない。
中に入って妻戸を閉めると、格子戸もすべて下ろした中で寝転んでいる人影が見えた。その途端、急に緊張して若者は唾を飲み込んだ。真っ暗にすると眠れない所は昔と同じだな。考えながらそっと歩み寄ると、ふいに声が響いた。
「…双海? 何かあったのか…?」
少し眠そうな声をしていた。うたた寝をしてたのか…まだ起きていたのか。若者が馨君を見下ろすと、馨君は振り向いて男を見上げ、それから目を見開いて飛び起きた。
「み…っ、水良! お前、何て格好…」
息を呑んだ馨君に、水良がニッと笑って似合うだろうと答えた。よく見るとそれは馨君がいつも着ている武官束帯で、老懸に飾りのついた太刀まで佩いていた。誰か!と女房を呼びかけた馨君の口を慌てて塞ぐと、水良はその身にのしかかるようにして得意げに言った。
「どうだ、これなら三条邸に入ってきても、俺とは分かるまい」
「そりゃ、そんな格好してたら…でも、何で」
馨君が自分の口を塞いでいる手を無理によけさせて尋ねると、水良は至近距離で顔を覗き込んで答えた。
「これなら…兄上にも、俺が忍んできていると分からないだろ」
「…え」
急に胸がドキンと鼓動を打って、馨君が驚いて水良を見上げると、水良は馨君から手を離して老懸を外した。続いて太刀も外して平緒も解いてしまうと、苦しかったと呟いてから馨君の手をつかんだ。
「ごめん」
「な…何」
「兄上から聞いた。兄上もお前を思っていると言ったそうだな…俺は、兄上を大事に思っているし、ご尊敬申し上げているけれど、でもそれとこれとは別だ。馨君…俺は、お前が好きだ」
息を止めて馨君が目を見開くと、水良はつかんだ手に唇を押しつけてから単衣の袖を捲って手首にそのまま唇を滑らせた。好きだよ。白い腕に口づけて囁くと、呆然としている馨君を見て、水良は笑った。
「何だ、その顔は。まるで生霊でも見るみたいに」
「だって…なぜお前が俺の束帯を持ってる。ここまでどうやって来たんだ、それに…どうやって中に」
そこまで言って、馨君はビクッと身を震わせて真っ赤になった。誰かが手引きを!? 馨君が身をズリズリと後退させながら尋ねると、おっとと言って馨君の単衣の両袖をつかみ、それから水良はうっすらと笑みを浮かべて答えた。
「双海に打ち明けて頼んだ。俺とお前はデキデキだけど、世を忍ぶ仲なのでなかなか会えぬ。俺は馨君のふりをして三条邸へ忍んでくるから、武官束帯を乗せた迎えの車を三条邸から寄越してくれと」
「じ…従者は誰が」
「熾森。大丈夫だって。熾森には話してないから。またいつものくだらない宮さまのお遊びだと思っているよ、あの朴念仁は」
よっ、選りに選って双海と熾森か!?
恥ずかしさのあまり身悶えして馨君が離せ!と水良を押し返すと、水良は離さないと珍しくきっぱりと言って馨君の腕をつかみ直した。水良。うろたえたように馨君が名前を呼ぶと、水良は真剣な表情で馨君の顔を覗き込んだ。
「好きだ…夜毎、お前の夢を見る」
「水良、やめてくれ」
「好きだ。お前が」
「聞いたのなら…分かっただろう。春宮さまがどう思われるか…」
苦しげにうつむいて馨君が言葉を吐き出すと、水良は眉を潜めた。馨君の腕をつかんだまま口をつぐんで、まっすぐに馨君を見つめる。
「お前は兄上が好きなのか。俺よりも?」
率直な水良の言葉に、馨君は声を詰まらせた。何を言い出すんだ、こいつは。どうしていつもそうなんだ。真っ赤になって馨君がそのようなことは…と口ごもると、水良は馨君の体を覆うように抱きしめた。
「俺が守る。馨君…俺がお前を守るよ。生涯、室は娶らぬ。お前だけだ」
熱い息が耳元に降り掛かって、背筋にゾクッと快感が走って馨君はもがいた。戻れなくなってしまう。俺だって…俺だってずっとお前を。声はかすれて言葉にならず、ただ子供のように頭を振って馨君は床に手をついて水良から逃れようとした。
「逃げるな。逃げないでくれ」
床を這うように逃げる馨君に覆いかぶさると、水良は小声で囁いた。水良の息づかいが狂おしくて、そのまま何も考えずに抱きしめることができたら、どんなにいいだろう、一瞬そう思ってそれから馨君は自分の袖に顔を押しつけながら呟いた。
「…駄目だ」
水良の腕の中で囁いた声は、震えていた。
しばらく黙り込んで、それから水良がそろりと身を起こした。床に肘をついて水良を見上げた馨君の表情は、まるで夢から覚めたばかりのようにどこか頼りなげで、水良はふっと息をついてから馨君の単衣の裾をつかんだ。
「俺を好きか?」
水良の言葉にビクンと震えて、馨君は目を見開いた。
答えを待つ水良を見上げて、それから馨君は力の抜けた身を床に横たえて目を閉じた。
俺だって。
ずっと、好きだった。
両手で口元を押さえた馨君を見下ろすと、水良はそろそろと手を伸ばしてその頬に触れた。この身一つになれば、残るのはただそれだけだ。馨君が目を開くと、水良は馨君の上に身を屈めた。
頭では拒まなければと思っているのに、心はこんなにも求めている。
「…きだ」
馨君のかすかな言葉と共に、水良が馨君に口づけた。
軽くついばむように。緊張で唇は乾いていた。そっと離れて馨君の目を覗き込むように見て、それから水良は笑った。いつもと同じ笑顔だった。
「お前はいっつも、何てことないみたいな顔で笑うんだ」
少し怒ったように馨君が言うと、水良は馨君の胸に頭を乗せて声を上げて笑った。水良の体温を肌に感じながら馨君がその頭を抱くと、水良は目を細めて馨君を抱き返した。
今は…今だけは、何も考えずに水良を感じていたい。
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