玻璃の器
 

 結局、公卿ばかりに囲まれ、馨君とは一度も話せなかった。
 夜が更けると牛車でも危ないからと兼長に引き止められ、水良は懐かしい東の対の一室で休んでいた。絢子が里下がりをしていた頃にお付き女房をしていた年嵩の者が、水良の仕度を手伝ってくれた。宴の間、ずっと口さがなく自分たちが通う女の話をしていた公卿たちに何だかあてられてしまって、水良は眠れずに寝返りを打っていた。
 今頃、馨君は何をしてるだろうか。
 俺を送ろうと、兵部卿宮たちと話しているのを切り上げてわざわざ来てくれたのに、兼長どのが半ば強引に俺に泊まっていくよう勧めてしまった。馨君は反対はしないけれど…困った顔をしていたな。酔ったのか、潤んだ目をして可愛かった。
 佐保宮さまも、もう新年には十五になられますし、女の肌をそろそろお知りになられては?
 やはり柔肌を抱きながら眠るのは心地ようございますよ…。
 大人たちの言葉が、馨君の困ったような表情と重なって、水良は寝返りで仰向けになって大きく息をついた。俺だって、好きな人を抱きたいよ。この腕に馨君を抱いて眠れたら…どんなに幸せだろう。
 …行こうかな。
 今は西の対にいると、兼長どのが言ったっけ。冬の君が三条邸に来てから西へ移ったのだと言っていた。西の対へは行ったことないな。馨君のいる所へ行けるだろうか。
 こういう時、若葉がいればなあ。ため息をついて水良は目を閉じた。若葉がいれば、妻戸を開けてくれるだろうに。俺の知っている馨君付きの女房たちは、馨君があらかた東一条邸へ移してしまったし、もっとちゃんと西の対の様子を聞いておけばよかったな。
 行ってみる? どうする…でも、こんな機会はもうないかもしれない。馨君だっていずれは女の元へ通うのだし…俺だって。それなら、せめて初めての夜は好きな人と過ごしたい。
 よし、行こう。
 迷って誰かに見られたら、女房の所へでも忍んできたと適当に言おう。水良が勢いよく身を起こして立ち上がると、ふいに妻戸がカタンと音を立てた。ドキンとして水良があわてて衾の中へ潜り込むと、ほとほとと妻戸を叩くような音が響いた。
「…どなたでございますか? こちらは佐保宮さまがお休みになっておられます」
 妻戸の鍵を下ろしていたのか、控えていた女房が小声で尋ねた。誰か間違えて訪れたのだろうか。今日は他にも泊まりの公卿たちがいるからな…。水良が眠ったふりをして息をひそめていると、ふいに妻戸の向こうから低い小さな声が響いた。
「俺だ。開けてくれ」
 …馨君!? 鼓動がばくんと跳ね上がって、水良はギュッと目を閉じた。開けてやれと声をかけるべきか、それとも寝たふりをした方がいいんだろうか。胸を押さえて待っていると、女房が掛がねを外して馨君を招き入れた。
「若君さま、このようなお時間にいかがされました?」
「すまないが…下がってくれ」
「ですが」
「いいから下がれ。西の対へ戻る時にまた声をかけるから」
 馨君と入れ替わりに、女房の衣の音がさやさやと遠ざかっていった。ドッドッと弾む心臓が痛いぐらいで、水良が身を縮めていると、馨君の匂いがふわりと水良に届いた。
「…水良」
 馨君の声は少しふわふわと夢を見ているようで、水良はこれは夢かとうっすら目を開いた。背を丸めて寝転んでいる水良の背中側に座して、馨君はジッと気配を探っているようだった。起きていることを気づかれたのだろうか。それとも…これが夢なら、この馨君は俺の願望か。馨君の温かな手が水良の頭に触れて、水良は目を閉じて呟いた。
「これは夢か…馨君」
 水良の声に、馨君がピクッと震えた。寝返りを打って目を開くと、闇の中、目の前に白い袿がぼうっと浮かんで見えた。馨君の生霊? あまりにも妖しい美しさに息を呑んで水良が口をつぐんだままでいると、ふいに馨君が水良の上に屈んだ。
 そっと唇に吐息がかかる。
 唇が触れると、水良は思わず息を止めて目の前の馨君に見入った。水良の脇に腕をつくと、柔らかくしっとりと唇を重ねて、それから馨君は唇を離した。大きな目が水良をジッと見つめていた。水良が馨君を抱きしめようと手を伸ばすと、馨君は頬を赤く染めてスッと身を引いてしまった。
「馨君」
 水良が身を起こすと、馨君は我に返って驚いたように水良を見て首を横に振った。逃げないでくれ。ここにいてくれ。馨君の白い袿の裾を水良がつかむと、それを取りかえそうと引っぱり、そして諦めたように袿を脱いで馨君は立ち上がった。
「馨君!!」
「諦めてくれ…駄目なんだ。もう」
 それだけ言い捨てると、馨君はまた妻戸を開けて外へ出て行ってしまった。なぜ駄目なんだ。お前は俺を思ってるのか…さっきの口づけは、そういう意味なのか。立ち上がって水良も妻戸を開けると、そこにはもう馨君の姿はなかった。

 
(c)渡辺キリ