玻璃の器
 

 目が覚めると馨君はすでに参内した後で、水良は手早く顔を洗って朝餉を済ませた。
「あら、この袿は…」
 夕べ水良の宿直を務めた女房が、衾のそばに落ちた袿を拾い上げた。昨日の四つ白直衣を身につけた水良は、冠を正してから袿に視線をやって呟いた。
「馨君のものだ。俺が返しに行こう」
「でも、若君さまはもう参内された後でございますが」
「いいんだ。案内してくれ」
 白い袿をたたんで、女房がそれを掲げて母屋を出た。扇を懐に入れて東の対を出ると、簀子を渡りながら水良はぼんやりと庭を眺めた。
 所々変わってはいるものの、馨君がよく登っていた木は同じ所に立っていて、水良は前を歩いていた女房に声をかけた。
「女房どの、馨君の弟君が寝殿に住んでいると聞いたけれど、いくつだ」
「馨君さまより三つほどお年が下でございます。来年には元服遊ばして、衛門佐か侍従の君になられるのではと女房同士で話しておりますわ」
「そうだろうな。涼やかな目の、とても可愛らしい君だったし」
 昨日、宴で顔を合わせた時のことを思い出して、水良は言った。あれほど母上に似ているのなら、主上も気に入るだろうな。渡殿を通って西の対に入ると、こちらにございますと水良を案内してから女房は簀子から母屋に声をかけた。
「佐保宮さまがおいででございます。若君さまの袿を返されたいと仰せになられて」
「あら、馨君さまはもうお出かけになられましたのよ」
「そう申し上げたのですが、よいと仰られて…」
 御簾越しに女房が話すと、中にいた双海が御簾をするすると上げて簀子に出て平伏した。佐保宮さま、若君さまは参内されましたが、ごゆっくりおくつろぎくださいませと言って、他の女房に言いつけて高麗縁を出させた。
「よい。袿を返しにきただけだから…少し、下がってくれるか」
 水良が言うと、女房たちは顔を見合わせてから水良に頭を下げて行ってしまった。袿を衣架にかけて整えてから最後の一人が下がると、水良は母屋を見回してため息をついた。
 馨君の匂いがする。
 ここが今の馨君のいる所か。やはりゆったりとしていて落ち着くな。調度も華美ではなく、かといって質素でもなく品がいい。目を細めて衣架にかけた馨君の袿に触れると、そこに額を押しつけて水良は目を閉じた。
 馨君の香りが、より一層その存在を感じさせる。
 なぜ、馨君は夕べ、俺の所へ来たんだろう。
 聞きたい。もう一度…抱きたい。体の奥がズクンとうずいて、水良は目を開いた。扇をパチンと鳴らすと控えていた双海が衣擦れの音をさせて現れ、ご用でございますかと尋ねた。東一条邸へ戻るので、北の方どのに挨拶がしたいのだがと水良が言うと、双海の他にもう一人控えていた女房が、私が知らせに参りましょうと答えて立ち上がった。
「佐保宮さま、若葉さんたちは元気ですか?」
 こちらでお待ち下さいと座を整えながら双海が尋ねると、水良はそこにゆったりとあぐらを組んで、元気にしているよと答えた。
「こちらでも新しい女房を揃えて、若葉たちを戻さねばならない所だが、つい忙しさにそのままにしてしまった。すまないな」
「いえ、若葉さんたちとはお文で消息を伝えておりますのよ。特に若葉さんは若君さまとずっと一緒におられた方ですから、もう心配でしょうがないみたいで」
 おかしそうに笑って言った双海に、水良は目を伏せて微笑んだ。女童としてこちらに務めていたんだから、若葉は馨君のことを主人とも弟とも思っているだろうな。袖の内でクスクス笑っている水良を見て、双海はホッとしたように言った。
「若君さまが仰る通り、佐保宮さまはお優しそうでのんびりしていらして、私もホッとしましたわ」
「馨君が?」
 水良が驚いて双海を見上げると、双海ははいと朗らかに答えて水良のそばに控えた。
「最近は毎日、佐保宮さまの話をされてます。大内でお見かけしたとか、今日はいらっしゃらなかったとか。夕べも、佐保宮さまのお妃問題でお殿さまたちが佐保宮さまを取り囲んでおられて、まんざらでもないんだろうかとか言ってお悩みでした。ふふ、まるで通いの姫君のような憂い顔でしたわよ」
 おかしそうに言った双海に、水良は真っ赤になった。筒井筒とはお聞きしてましたけど、本当に仲がおよろしいのね。ホホホと袖で口元を隠して笑った双海を見ると、水良は少し黙り込み、それから口を開いた。
「女房どの、名前は?」
「えっ? 双海と申します」
 双海が慌てて答えると、双海かと呟いて、水良はチラリと周りの気配を伺った。他に女房のいる気配も、聞き耳をたてているような気配もなかった。
「双海に頼みがあるんだ」
 水良が膝を進めると、はあと答えて双海はきょとんとした。他の女房たちには内緒にしておいてくれと前置きすると、水良はひそひそと小声で双海に耳打ちした。

 
(c)渡辺キリ