玻璃の器
 

 退出しようと右近衛の陣から出た所で、時の大輔につかまった。父上の所へ行ってみないかと言われて二つ返事で頷いた。それなら冬の君も連れて行こうと内裏へ迎えに行くと、冬の君は少し大人しいものの殿上童とも慣れた様子で一緒に遊び回っていた。蛍宮家へ行こうと馨君が声をかけると、冬の君は少し困ったように眉を寄せ、それから頷いた。
「昨日はありがとうございました」
 最近、声変わりをした冬の君は、中音域の綺麗な声で言って牛車の中で丁寧に礼をした。馨君が昨日?と冬の君に尋ねると、冬の君は馨君を見上げて答えた。
「時の大輔さまから立派な笛をいただいたのです」
「三条邸にいれば何でも手に入るだろうけど、俺にしてやれるのはこれぐらいのものだからな。特によい音のものを選んできたんだ」
 時の大輔が言うと、冬の君は大切にしますとまた頭を下げた。時の大輔どのの見立てなら、美しい音が鳴るだろうな。馨君が呟くと、冬の君は遠慮がちに口を開いた。
「今、お持ちしておりますが、何か吹きましょうか」
「本当に? じゃあ頼むよ」
 馨君がにこりと笑うと、冬の君は懐から笛を取り出した。嬉しそうにうっとりと細工を眺めてから笛を吹き出した。京の大路を進む牛車から笛の音が流れて、すれちがう衛士の何人かが振り向いて耳を澄ました。
「…時の宮さま、蛍宮邸に着きました」
 冬の君が一曲吹き終わるのを待って、熾森が声をかけた。三人で連れ立って蛍宮邸に入ると、女房たちが何人も出てきて、お待ちしておりましたわと次々馨君に声をかけた。
「おおい、俺のことは待ってないのかよ。せっかく父上の見舞いに馨君と冬の君を連れてきたっていうのに」
 時の大輔が言うと、馨君の後ろに隠れていた冬の君がビクッと震えた。あら、まあ冬の君さま! 頬を赤くした女房が冬の君に気づいて声を上げた。よくおいで下さりました、さあ中へお入り下さいませ。そう言って角盥の水で三人の足を拭うと、年長らしい女房が先導して三人は東の対に入った。
「みんな、冬の君の綺羅綺羅しい生活を伝え聞いて、一気に憧れの的になってしまったようだよ。全く、現金というか何というか…」
「あの…椿の宮さまは、おいでなのでしょうか」
 冬の君がおずおずと尋ねると、時の大輔はどうかなと答えた。笛の音が聞こえないから、今日はいないかもしれないな。時の大輔の返事にがっかりしたように息をつくと、冬の君は懐かしい蛍宮邸のたたずまいを眺めた。
「やあ、馨君、冬の君。よく来てくれたね」
 見苦しい格好ですまないが。そう言って、寝転んだまま顔をほころばせた蛍宮に、冬の君が駆け寄ってそばに膝をついた。お具合はいかがなのですか。冬の君が勢い込んで尋ねると、蛍宮はニコニコと笑って答えた。
「今日はお二人が来てくれたから、痛みも吹き飛んでしまったよ」
「大事になさって下さいませ。背なの痛みはいかがでございます?」
「昨日よりは随分ましだ。冬の君、しばらく見ぬうちに立派になって…」
 目を細めて涙を袖で拭った蛍宮に、冬の君がご無沙汰して申し訳ございませんと頭を下げた。まあ、馨君さま、冬の君さま。妻戸より入ってきた北の方がその場に控えて頭を下げると、馨君と冬の君も揃って頭を下げた。
「まあまあ、お二人ともご立派なお姿で。今日は参内なさったの?」
「はい。冬の君も今、殿上童として内裏へ上がらせていただいておりますので」
「そうなの、まあまあおよろしいこと」
 にこやかに挨拶をする北の方に馨君もにこりと笑うと、冬の君が少し黙り込み、それから遠慮がちに尋ねた。
「あの…椿の宮さまはおいでですか?」
 冬の君の言葉に、北の方に支えられて身を起こした蛍宮は表情を曇らせた。北の方も視線を伏せていて、冬の君がご病気か何かなのですかと顔色を変えて尋ねると、蛍宮はため息をついてから答えた。
「それが、西の対から出てこぬのだ。そなたが使っていた部屋に籠ってしまってな…初めは我侭が過ぎると放っておいたのだが、近頃は食事も食べぬようになって…」
「椿の宮さまが!?」
 顔色を変えて冬の君が言うと、時の大輔も知らなかったと呟いて眉をひそめた。私は下がりましょう。気を利かせて馨君が頭を下げると、蛍宮を支えていた北の方があわてたように馨君を見た。
「いえ、それでは申し訳ありませぬゆえ…冬の君、二の宮の話はまた後ほど…」
「しかし」
「どうぞゆるりとお話し下さい。私は庭でも見せていただきます」
 冬の君の心配げな声で言うのと馨君が立ち上がるのがほぼ同時で、馨君は蛍宮に頷いて口を開いた。
「私がいないほうが話しやすいでしょう。冬の君はずっと二の宮さまに世話になっていたのだから、心配するのは当たり前です。どうぞお気にかけないで下さい」
「それじゃ、姉上の所で語られてはどうか」
 時の大輔が口を挟んだ。え? 馨君が驚いて尋ね返すと、時の大輔は女房を一人呼んで萩の宮姫の所へ知らせるよう命じた。
「ほんの半刻ほどのことだし、もう日が暮れて庭も見えないだろう。姉上なら会ったこともあるし、たまには姉上にも内裏の様子をお話いただけると、喜ばれると思うが」
「でも、ご迷惑では」
 言いかけた馨君に、北の方が迷惑などとと興奮のあまり赤い顔をして答えた。そうしていただければありがたいが。蛍宮が困ったように付け加えると、ではそうさせていただきますと馨君はにこりと笑った。
 しばらくして萩の宮姫の元から女房が戻ってくると、馨君はその女房を連れて廂から御簾をめくって簀子に出た。萩の宮姫はご迷惑に思わないだろうか。少し心配になって馨君がもう一度尋ねると、女房は笑ってご迷惑どころかと答えた。
「馨少将さまと言えば、都中で知らぬ者はいないというほどの若公達さまですもの。その馨少将さまから内裏での綺羅びやかなお話などお聞かせいただけるなんて、どんなによくできた絵巻物を見るよりも素晴らしいことですわ」
 頬を赤くして、馨君をちらちらと見ながら女房が小さく笑った。こちらでお待ち下さいませ、すぐに戻りますゆえと言ってから女房が先に進んだ。馨君さまのお越しでございます。簀子から御簾の内へと女房が声をかけると、中にいた萩の宮姫付きの女房がどうぞおいでくださいませと答えた。
 馨君の座はすでに廂にきちんと作ってあって、御簾が下ろされていた。中に几帳も立ててはあるものの、御簾の裾からはすぐ脇に座った女房の袿の裾がこぼれていた。なかなかいい色だな。ちらりとそれに視線を走らせ、それから馨君は丁寧に頭を下げた。
「萩の宮姫さま、お久しぶりでございます。もっと細やかに折々のお文など差し上げなければならない所を、つい無沙汰をしてしまい申し訳ありません」
「…いえ、私こそ、結構なお品をいただきながら、どうにも気後れしてしまってお礼もろくに差し上げませんで申し訳ございません」
 …お品? 馨君が思わず固まると、萩の宮姫は何か悟ったのか、あわてて私の思い違いでございましょうと言った。ひょっとして熾森か。そう言えば何か言っていたような…。馨君は赤くなると、しゃちほこばって答えた。
「あのっ、どうぞお気になさらないで下さい。宮姫さまにお似合いかと贈らせていただきましたが」
 周りの女房が袖で口元を押さえてクスクスと笑い出した。何かおかしなことを言ったかとますます真っ赤になった馨君に、そばに控えていた女房が笑いを堪えながらそっと囁いた。
「馨君さま、従者どのが月見の宴のための団喜や果物を、たくさんお持ち下さったんですのよ」
 き、消えたい。団喜やら果物やらをお似合いだとは。身を縮めて馨君が黙り込むと、萩の宮姫はおろおろとして女房に叱責した。
「これ、余計なことを。あの…お気になさらないで下さいね。私、とても嬉しかったんですのよ」
 小さくなっている馨君に、萩の宮姫が柔らかな声で言った。
「申し訳ありません。どうも頓珍漢なことを…」
「いいえ。団喜も果物も、私大好きですわ。あの日は美しい月が出ておりましたし、団喜をお供えしてみなで内裏のように管弦を催しましたの」
「それはようございましたね。そう言えば、宮姫さまは父上さまのお手ほどきで琵琶がお得意とか」
「いえ、童の手遊びのようなものですわ。お恥ずかしい」
「私も蛍宮さまに琵琶の手ほどきをいただいたのですが、今ひとつ才がないようで…秘訣などあれば教えていただけませんでしょうか」
「そのような秘訣など」
 萩の宮姫が笑いながら答えると、そばにいたお付き女房の小侍従が琵琶を持ってきて、お弾き遊ばされてはと言って差し出した。
「まあ、馨君さまの前で琵琶を弾くなど…馨君さまは、内裏で雅楽寮の方々の管弦をお聞きなのよ」
「どの楽器も、人が違えば音色も違うと申します。宮姫さまの音色をお聞かせ願えれば…」
 馨君がにこやかに答えると、それでは触りだけと赤くなって答えて宮姫は琵琶を抱えた。調子笛(ちょうしぶえ)なしに手早く調弦すると、おずおずと琵琶を弾きはじめた。

 
(c)渡辺キリ