玻璃の器
 

 水良から内裏に残るよう言いつけられてからずっと藤壺にいた朝顔は、その日、藤壺から突然呼び出された。
 水良の元にいた頃はともかく、絢子のそばには古参の女房が大勢いたため、顔や名前を覚えられているかも怪しかった。それが名指しでのお召しということで、同年代の女房たちから羨ましがられながら朝顔は首を捻って身支度を調え、藤壺に急いだ。
 水良さまのことで、何か聞かれるのかしら。
 最近はついつい忙しくて文も交わしていなかったし、何も思い当たることがないけれど…考えながら藤壺近従の女房に参上した旨を告げると、その女房と共に朝顔は絢子の元へと向かった。
「朝顔が参りましてございます」
 下ろしたままの御簾の外から、孫廂に平伏して女房がゆったりと優雅に声をかけると、朝顔も同じように一歩下がった所で平伏した。すでにもう一人、梅襲ねを身につけた艶やかな若い女房が鎮座しており、美しい青色の若草の襲ねを身につけた朝顔が言葉を待つと、御簾の内から若い男の声がして、朝顔は驚いて御簾内へ視線を向けた。
「そなたが朝顔か。佐保宮がこちらにいた折に付いていた女房というのは」
 水良さまを呼び捨てにした…ということは、春宮さま!? 朝顔が慌てて深く平伏すると、御簾内にいた惟彰はそばにいた女房に御簾を上げるよう言いつけた。スルスルと御簾が巻き上がると、中にいる惟彰の姿は室内の暗さも手伝って孫廂からは見えなかった。
「面を上げよ」
 朝顔が恐る恐る顔を上げると、光の当たった指貫が朝顔のいる位置からわずかに見えた。宴で遠くから見る機会はあっても、これまで惟彰と間近で顔を合わせる機会がなく、朝顔にとって東宮惟彰は声をかけてもらうのも恐れ多いような存在だった。何か粗相でもあったのかしら。朝顔が目を伏せたまま静かに言葉を待つと、もう一人の女房がチラリと朝顔を見てから口を開いた。
「春宮さま、梨壺ではなくこちらへ参上しましたのは、この方が藤壺さまの女房だからですの?」
 梅襲ねを着た女房の方は、どうやら惟彰とは親しい様子だった。朝顔が関係を推し量っていると、惟彰は笑いながらそれもあるがと答えた。
「佐保宮に関することなので、こちらに来てもらった。すまないが、皆は下がってくれ」
 惟彰が他の女房に声をかけると、そばに控えていた数人の女房たちが優雅な身のこなしで下がって行った。後に三人残されると、朝顔は緊張した面持ちで伏せていた視線を上げた。
「春宮さま。佐保宮さまに何かございましたか?」
 朝顔が尋ねると、惟彰は脇息にもたれて扇を玩んだ。少し言葉を選ぶと、梅襲ねの女房に視線をやってから惟彰は口を開いた。
「そなたたちには、佐保宮…東一条邸へ行ってもらいたい。そうだな…如月が終わる頃までだ。東一条邸には今、馨少将どのが詰めておられるから、かの君に付いて世話をするように」
「私と、その…朝顔どのがですか?」
 梅襲ねの女房が少し不服そうに尋ね返した。その声にはわずかに刺があるように感じて、朝顔がムッとして梅襲ねを見ると、彼女の方もチラリと朝顔を見てからまた言葉を続けた。
「それほど馨少将さまのことがご心配なら、いっそ梨壺の宿直でもさせればよろしいでしょうに。私が行くまでもありませんわよ」
「それができるなら、とっくにしているよ、玉里。とにかく参内している時以外、交代で馨君の世話をし、宿直も任せたい。馨君にも伝えてあるので、行けば手配は整えてくれているはずだ。そなたたちは主に仕えるように馨君に仕えてくれればそれでよい」
「あのう…少将さまでございますか? 水良さまではなく?」
 朝顔が恐る恐る尋ねると、惟彰はにこりと優しげに笑って頷いた。そなたには申し訳ないことだが。そう言って言葉を切ると、惟彰は立ち上がって廂まで出て来てそこに膝をついた。
「佐保宮とは三条邸から内裏に戻ってより東一条邸へ移るまで、ずっと仕えていてくれていたそうだな。今頃、礼など遅いと笑われるだろうが、よく面倒を見てくれた。ありがとう…なれど、今はもう、東一条邸にはあれ付きの女房が大勢いる。少しの間だが、そなたには馨君の面倒を見てもらいたいのだ」
 初めて近くで見る惟彰の姿は、すっきりとした顔立ちながら柔和な表情で、東宮として見劣りのしない立派な居姿をしていた。頬を染めてかしこまりましたと朝顔が平伏すると、惟彰は目を細めてニコニコと笑った。
「そなたは玉里と物見遊山でも行くように出かけておくれ。東一条邸に行けば水良と顔を合わせる機会もあろう。ゆるりと語り合ってくるがよい」
「ありがとうございます」
「そなたの局は藤壺だな。後で従者を向かわせよう。それまでに準備しておいてくれ」
 惟彰の言葉にかしこまりましたと頭を下げると、朝顔は玉里にも頭を下げて自分の局へ戻って行った。後に残された玉里が、朝顔が行ってしまったのを確認してから軽いため息をついた。
「何か言いたげだな」
 廂にあぐらを組んで惟彰が囁くと、玉里は目を伏せたまま答えた。
「あの者は、佐保宮さま付きだった女房でございます。あなたさまのご意向には添いませんわ」
「何でも分かったようなことを言うね」
「私はあなたさまをずっと見ておりますもの」
 玉里が言うと、惟彰は目を伏せてそうだなと呟いた。しばらく二人黙り込んだ後、惟彰が玉里を見て口を開いた。
「朝顔のことは水良も慕わしく思っていたと聞く。あの女房が馨君のそばにいれば、花のつぼみも手折りにくかろう」
「では私は? 私の意義は何ですの」
 玉里がふてくされたように尋ねると、惟彰は笑った。おかしそうにしばらく声を立てて笑うと、惟彰は目を細めて優しげに玉里を眺めた。
「そなたは分身…私の分身だ。玉里、そなたとっくに気づいていると思うたが」
 惟彰が言うと、玉里は一瞬黙り込み、それから狡猾な言い方をされますのねと答えて立ち上がった。そのまま立ち去ろうとした玉里に、惟彰も立ち上がって孫廂に出た。
「玉里、頼む」
 惟彰の声に、玉里が振り向いた。あなたさまの分身ならば、あなたさまの思う通りにと答えると、玉里は衣擦れの音を立てながら惟彰を残して立ち去った。

 
(c)渡辺キリ