玻璃の器
 

 権大納言行忠邸では、一人の女房が自分の局でため息をついていた。
 三の姫付きになって以来、運がついてきたのか、三の姫に気に入られいつも側近くで世話をするようになった。そうなれば当然、北の方にも名前と顔を覚えられ、行忠からも目をかけられるようになる。これまでは何人か共同で使っていた局も一人で使える所を与えられ、三の姫の寝所に近い廂へ移った。我侭な三の姫も栄の言うことなら大人しく聞くと行忠邸内では評判になり、同じく行忠に仕えている夫も次第に取り立てられるようになってきた。このまま夫と順風満帆に生きていけたらと望んでいた矢先に、夫と結ばれる前に通われていた男からまた文が届いた。
 自分の身分や立場から言えば、無視できない相手だ。
 どうして今頃、私のことを思い出されたのかしら。
 困るわ…文を結んで文箱に入れると、栄は文使いも帰ってしまってどうせ今夜は返事できないと、灯台の火を消した。あまり遅くまで火を灯していると、古株の先輩女房から油がもったいないと叱られる。
 毎日のように男から文が届くようになって、もし独り身ならまた再びヨリを戻そうかと思ったかもしれないが、今は自分の身の丈にあった愛する男もいる。着物を重ねた中に潜り込んで目を閉じると、栄は寝返りを打って長い息を吐いた。何と言ってお断りすればいいのかしら。文には思いが募って今日にも会いたいなんて書いてあるけれど、あの方のことだからどこまで本当だか分からないし。
 あちらこちらの貴族の邸宅で務めている女房を愛人にするのは、恋愛の綾ということだけではなく、女房たちの噂話からその家の内事情を聞くためでもあるのだからと、他の女房との恋の噂を聞いてもずっと我慢してきた。けれど、あの方に抱かれている時、本当の意味で幸せだったことは一度もなかったわ…。今の夫、敏行は正反対の性質で、派手さや雅びさ、羽振りのよさには欠けるが、真面目で思いやりがあって、栄といると心が安らぐと言ってくれた。財力は前の男に及ばないが、初めて幸せだとしみじみ思えたのだ。
 けれど…あの方にそのことをどう伝えたらよいのかしら。
 私とて、あの方が嫌いになった訳ではないのだもの。目を閉じても眠れず、考え込んでいた栄の耳に、ふいにほとほとと局を仕切る襖を叩く音が届いた。誰かしら…姫さまが目を覚まして呼んでおられるのかしら。身を起こして栄が襖に近づくと、自分の局で休んでいたはずの先輩女房の声が暗闇に響いた。
「栄さん、開けてちょうだい」
「どうなさったんですの? こんな夜更けに…三の姫さまに何か?」
「そうじゃないんだけど…」
 言いにくそうに呟いた先輩女房に、栄は襖についていた掛け金を外した。その途端、スッと開いた隙間から大きな黒い影が入り込んで、後ろ手で再び襖を閉じた。手探りで掛け金を留める音がして、体を抱き寄せられると、懐かしい香りに気づいて栄は青ざめた。
「義蔵さま! 伴義蔵さまですの!?」
「シッ、静かに…みな寝静まっている」
 栄の体をたどって口を塞ぐと、伴右大弁はそのまま栄の体をさっきまで寝ていた着物の上に押し倒した。局の中は真っ暗で鼻先も見えず、栄がおやめ下さりませ!と声を荒げると、伴右大弁は栄の首筋に唇を押しつけながら囁いた。
「会いたかった、栄。ずっと会いたかったのだが、なかなかこの屋敷へ入り込むことができなかった。栄…お前、局も変わったんだな。間違えてあの年嵩の女房を抱く所だったぞ」
「わ、私は局が変わったように、私自身も前の私ではございません…ご容赦を」
「変わらぬ…香りも、声も何も変わらぬではないか…栄」
 低い声で耳元に囁かれ、栄は無条件で反応する自分の体に鞭打つように、床を這って逃れようとした。それを後ろから抱きとめると、伴右大弁は栄の髪を自分の手に巻きつけて引いた。
「あっ!」
 髪を引かれて、栄は逃げ場を失いご容赦をと呟いてその場に突っ伏した。右大弁の手が栄の単衣の内へ潜り込み、柔らかな乳房を握りしめた。栄の呼吸がやがて甘い吐息に変わると、伴右大弁は愛しているとその耳元で囁いてそこに柔らかく口づけた。

 
(c)渡辺キリ