玻璃の器
 

「朝顔」
 一心に筆を滑らせていた馨君が、ふと顔を上げて振り向いた。それまで馨君のほっそりとした項に見とれていた朝顔は、弾かれたように返事をしてあたふたと頭を下げた。
「お呼びでございますか、馨君さま」
「うん、すまないが料紙をもう少し取っておくれ。足りなくなってしまった」
 にこやかに笑いながら言った馨君の花の顔にまた見とれると、朝顔は慌てて立ち上がり、お待ち下さりませと言いながら料紙を入れてある箱を取り上げた。手に持っていた筆を置いて墨をすり始めた馨君に視線を向けると、朝顔は思わず息をもらした。
 馨君が出仕をし始めた頃、水良に会いに藤壺へ来ていた馨君とは何度か顔を合わせたことがあった。
 けれど…文机の脇に白い料紙を何枚か置くと、馨君は目を伏せたままありがとうと言った。けれど、これほどまでにお美しくご成長されていたなんて、知らなかったわ。また後ろに控えて、朝顔は馨君の華奢な背中を眺めた。まさに花の盛りだわ。もし姫君に生まれていれば、さぞや評判の東宮妃とおなりでしょうね。
 不思議だこと。思わず笑みを浮かべて、朝顔はうっとりと馨君の姿を眺めた。馨君の姿は桜や芍薬の精かとも思えるほど美しいのに、微笑むと驚くほど親しげで愛らしく、まるで以前から知り合いだったかのような心持ちさえ感じさせた。あの玉里ですら、笑みを返したほどだもの。自分と牛車に乗り合わせて東一条邸に来た時は無愛想に黙りこくっていたというのに、馨君によろしく頼むとにこやかに微笑まれた途端、赤くなって、こちらこそよろしくお願いいたしますと声色を上げて。朝顔が袖の内でクスクスと笑うと、馨君が振り向いた。
「楽しそうだな。何を思い出したの」
「えっ、いえ、申し訳ございません」
 赤くなって朝顔が頭を下げると、馨君はさっきまで書いていた文を取り上げてきちんと折り畳んだ。
「これを頼む。六条に呉竹という、元は三条邸に女房として仕えていた老女がいるはずだから、間違いなく渡しておくれ。そうだな…織物一反と櫛笥を共に持っていくように、若葉に手配させてくれ。彼女は呉竹の孫娘だから」
「あら、若葉さんのおばあさまも、三条邸におられましたの?」
「元は二条のおばあさまについていたんだけど、おばあさまがご出家された時、母上の元に残ってくれたんだよ。当時は自分も出家するとずいぶんごねたらしいが」
「気骨のあるお方なんですのね。そのように望まれてお屋敷に残られるなんて、女房として羨ましいことですわ」
「そうだね。今は背中を痛めて六条の家で養生している。そのうち見舞いにも行かねばならぬ。その時はそなたもついてきておくれ」
 にこりと笑って言った馨君に、朝顔もにこりと笑い返して分かりましたと答えた。文を持って出て行く朝顔の背中を見ると、馨君はまた文机に向かった。
 後は誰だろう…俺が突然伺って話を聞いてもおかしくなくて、当時のことを知っていそうな方は。
 おばあさま…そうだ、二条のおばあさまは叔母上が入内した折、母上のように叔母上について内裏へ上がったはずだ。おばあさまなら当時のことを何かご存じかもしれない。おばあさまに文を書くなら、もう少し薄物の紙の方がいいか。カタンと音を立てて手に持った筆を置くと、馨君は立ち上がってさっき朝顔が紙を出した箱の蓋を開いた。

 
(c)渡辺キリ