玻璃の器
 

 二月に入るとすぐに宣耀殿が内裏を下がり、行忠邸へ戻った。
 一の姫の婿で濃姫の義兄の柾目を中心に、伴右大弁や三位中将など行忠派とされる殿上人たちが濃姫の乗る牛車について護衛にあたった。濃姫が行忠邸へ入ると、父の行忠に出迎えられて濃姫は西の対へ入った。
「宣耀殿さま、久方ぶりに我が家にてお目にかかり、私も嬉しく思うております。どうかご入内遊ばされる前のように心置きなくおくつろぎ下さいませ」
 行忠の北の方が慇懃に挨拶をすると、濃姫はありがとうございますと形ばかりに答えて脇息にゆったりともたれた。東宮妃となった濃姫はいくら父母と言えども行忠よりも身分が高いため、敬われ礼を尽くされて迎えられるのが常だった。
「少し疲れました。挨拶は後にしていただけませぬか」
 濃姫が几帳の奥から言うと、そうでしょうなあと、濃姫を迎えた喜びに頬をほころばせて行忠はニコニコと笑った。それでは今宵の宴にてと言って深々と頭を下げると、北の方と共に行忠は寝殿へ戻った。
 後に残された濃姫と、内裏から伴をしてきた女房たちが視線を合わせた。姫さま、もうしばらくのご猶予を。小さな声で囁いた年嵩の女房に、濃姫は御簾越しに庭を眺めながら呟いた。
「ならぬ。行って来ておくれ」
「かしこまりました」
 年嵩の女房が廂から出て行くと、そばにいた若い女房は櫛笥の蓋を開けて濃姫の髪を整えた。他の女房たちが急いで几帳をいくつも立てかけ、濃姫の袿を脱がせた。姫さま、お美しゅうございますよ。そう耳元で囁いて、女房たちは廂の御簾も下げて格子を下ろした。しばらくして足音もなく、若公達が女房を伴って現れ、妻戸から中へ滑り込んだ。
「…宣耀殿さま、お呼びでございますか」
 低い声が、格子を下ろした薄暗い母屋に響いた。濃姫の艶やかな目が柾目を捕らえた。黙ったまま脇息にもたれて目をそらした濃姫の影を眺めると、柾目はうっすらと笑みを浮かべて濃姫の下座に腰を下ろした。
「昼日中から格子を下ろされては、お体に触りますよ」
「そなた、このような日にも姉上の元へ機嫌伺いか。なぜ父上と共に挨拶に来ぬ」
「…大君(姉君)は私の正室、気分が優れぬと聞けば伺わぬ訳には参りません」
 涼やかな目を伏せて、柾目は答えた。食えぬ男よ…我が心を弄ぶか。目をそらして扇を口元に当てると、濃姫はもうよいと言って手を差し出した。
 その細く長い指先を手に取ると、柾目はそこに口づけ、そのまま濃姫を抱いて床に身を横たえた。あなたさまの望み通りに。そう囁いて笑うと、柾目は目を閉じた濃姫の額に唇を押しつけた。
 分かっている。この男もわらわを愛してはいない。
 ただ欲望に溺れている訳でもない。何を企んでいるのか…我が血族への恨みをはらしているつもりなのか。それとも東宮への侮蔑のつもりか。
 それでも…ひととき愛されているという夢を見せてくれる。それが礼儀とばかりに。夜のお召しに、義務のようにわらわを呼びながらも冷めた目で見る春宮とは違う。決して柾目を愛しているのではない。愛している訳ではないけれど、無限の虚無に蝕まれる前に柾目の手が与える熱に心浮かされたい。
「あ」
 単衣をはだけられ濃姫が声をもらすと、柾目の手が濃姫の鎖骨から緩やかにふくらんだ乳房をなで回した。一瞬で狂わせられる。袴の紐を解いて中に指先を潜り込ませると、柾目は濃姫の耳元で、ご退出をお待ち申し上げておりましたと囁いた。柾目の冷たい手が茂みをかき分け、体の奥へと滑り込んできた。濃姫が潤んだ瞳で柾目を見上げると、柾目はその唇に自分の唇を覆いかぶせた。
「姉上が…入内していれば」
 荒い息の合間に、濃姫が呟いた。目を閉じて柾目の愛撫を受けながら、濃姫は唇を噛み締めて眉を寄せた。もし一の姫が入内していれば、自分は内裏へ上がることもなく、柾目と…そう考えると息苦しくなって、濃姫は柾目の肩に腕を回してしがみついた。
「…あ!」
 一際高い声が濃姫の唇からもれた。腰をくねらせて柾目の与える快楽に身をゆだね、濃姫は柾目の手首をつかんで握りしめた。お静かに、外に控えている女房があてられますぞ。おかしそうに笑いながら柾目が囁くと、濃姫は低い声で構わぬと答えてゆっくりと目を閉じた。

 
(c)渡辺キリ