玻璃の器
 

 正月の宮中行事が一通り終わった頃、仕事を持ち帰っていた馨君の東一条邸の私室に文が届いた。
 以前から何度も届いていた文にも丁寧に返事をしていたのだが、詳しい様子が分からないと業を煮やした惟彰から届いた文には、今夜、非公式に東一条邸を訪れる旨が書いてあった。相変わらず気分が優れず寝たり起きたりを繰り返している水良を思うと気が重かったけれど、まだ不安定な水良とは会わせず何とか済ませようと心を決めて、馨君は惟彰を迎えるために若葉を呼び冠直衣に着替えた。
 随身を数人伴ったお忍び用の地味な女車が東一条邸に着いたのは、戌の刻を過ぎた頃だった。東の対に通されると、遅くなって済まないと言って白い冬の直衣に身を包んだ惟彰は上座に座った。馨君が下座に控えると、惟彰は挨拶もそこそこに眉をひそめて馨君に尋ねた。
「どういうことだ。あれから内裏からも私からも水良に何度も文を出しているのに、代筆の返事しか来ない。そなたも、病気ではないがしばらく静かに見守ってほしいとしか言わぬのでは…」
「…申し訳ございません」
「それでは分からぬ。説明してくれ」
 心配が高じたのか、惟彰は苛々したように尋ねた。馨君が扇を鳴らすと、若葉や他の女房たちが深々と頭を下げて、局へと下がって行った。しばらく黙り込んでいた馨君は、惟彰に促されて重い口を開いた。
「主上が熱をお出しになって寝込んでおられた日に、佐保宮さまが宿直をされたそうで…その際、前麗景殿さまの思い出話をされたそうなのです」
「前麗景殿の? 父上から?」
 怪訝そうに惟彰が眉をひそめると、馨君は膝で一歩進んで惟彰を見上げた。
「思いがけずに実の母上さまの話を聞かれたので、少し気が動転されて…落ち着くまでは東一条邸に籠って絵を描いて過ごしたい、その間の世話を私に頼みたいと仰せでしたので…及ばずながらこちらに詰めさせていただいております」
「馨君、私は」
 言いかけて黙ると、惟彰は真正面からジッと馨君の顔を見つめた。馨君がその眼差しをそらすことなく見つめ返すと、惟彰はふと視線を伏せて扇を取り出し、手持ち無沙汰にポンポンと手に打ちつけながら口を開いた。
「馨君、文にあった真心とは」
「夜も更けて後は決して佐保宮さまの元へ出向かず、佐保宮さまも東へはお越しにならないということでございます」
「バカなことを…水良は辛かろう」
「いえ」
 揺るぎのない強い視線で惟彰を見上げると、馨君は否定した。それから私はと囁いた。
「なれど私は辛うございます」
 初めて視線を伏せて答えると、馨君は床に手をついて頭を下げた。馨君。驚いたように惟彰が腰を浮かすと、馨君は平伏したまま声をもらした。
「申し訳ございません…私は、佐保宮さまをお慕い申し上げております」
 馨君の言葉に、惟彰が立ち上がった。馨君。低い声で名を呼ぶと、惟彰の扇が馨君の肩を打ち据えた。バンと大きな音が鳴って、馨君がクッと眉を寄せると、そのままグイと扇で顔を上げさせて惟彰は馨君の目を覗き込んだ。
「そなた…いつより」
「…昨年の秋より…いえ…もうずっと以前から」
「それを私には隠していたのか」
「はい」
「水良は何と」
「…」
 瞳を揺らして、馨君は惟彰を見上げた。その目尻からツッと透明な線が頬に走った。溢れた涙は疲れるまで泣きわめいた子供の頃とは違って、一筋こぼれ落ちて止まった。馨君がお怒りのままにご処分をと言うと、惟彰は扇を引いて項と襟の隙間に挿し、馨君の腕を強くつかんだ。惟彰の顔は苦しそうに歪んでいて、馨君が息を呑んで惟彰を見据えると、惟彰はなぜ…とかすれた声を出した。
「なぜそれを、私に言うのだ」
 水良を守るために。
 水良を守るために。
 水良を守るため。言葉が頭の中をグルグルと回った。ずっと考えていたことだった。惟彰に疑われたまま水良のそばにはいられない。何食わぬ顔をして、世間に絶対にもらしてはならない二つの秘密を一人では同時には守れない。今ならまだ…自分のことさえなければ、惟彰は自分を挟んで水良と対立する一人の男から、昔のように水良の兄という本分に戻れるはず、と。
「答えよ」
 肩を揺すぶられて、馨君は口を開いた。
「佐保宮さまには、心の底より頼れる後見となる人間が私しかおりません。気が細っている今、妃をと準備をしてもすぐに信頼できる間柄にとは叶いますまい。それならあなたさまに打ち明け、あなたさまと共に佐保宮さまをお守りすることが私の正道にございます」
「そなた、水良を愛してはおらぬのか」
「愛しているからこそ」
 馨君が惟彰を見つめて答えると、惟彰は馨君から手を離した。
 もう、思いを結んだ時とは状況が違う。
 水良、お前を守りたい。お前のすべてをそのままに保ちたい。お前の笑顔を全身全霊で守りたい。
 お前を抱きしめる代わりに、俺はお前の楯となりたい。
「…これほど情の強いとは」
 馨君の大きな目をジッと見つめると、惟彰は立ち上がって繧繝縁に座った。何があったというのだ。秘すれば続けることもできた逢瀬を断ち切らねばならぬほどの、何があったというのだ。黙って考え込んでいる惟彰を見上げて馨君が身を起こすと、惟彰は自分の膝に頬杖をついて目をそらした。
 水良を守る?
 私と共に…それを私に持ちかけるのか、馨君は。
 バカなことを。私はそなたを愛していると言うのに。
「…私に何ができよう」
 惟彰が呟くと、馨君はきちんと座り直して背を正し、膝の上で拳を握りしめて答えた。
「佐保宮さまのご婚礼、私の思惑とは関係なく、今しばらくお待ちいただきたいのです」
「そなた、水良を守りたいのであろう。ならばすぐにでも、水良にそなたの縁続きの姫を娶らせるのがよいのではないか」
「佐保宮さまは、ご自分が皇位に即くことを悩んでおいででございます。このたびの気鬱も元を辿れば由は立太子より来ているもの。春宮さまには、佐保宮さまに妃を娶らせようとご準備されておられる藤壺さまに、お取りなしいただきたいのです」
「それでどうする。水良が落ち着けば、そなたは喜んで姫を差し出すと?」
「…それが、佐保宮さまの御為なれば、ご説得申し上げましょう」
 馨君が目を伏せて言うと、惟彰はため息をついた。何かある。何か原因が…それを馨君は隠している。黙り込んだ惟彰に、揺るぎない視線で馨君は言葉を待った。ふと顔を上げると、惟彰は繧繝縁の上であぐらを組んで項に挿していた扇を手に取った。
「分かった。そなたの思うままにしよう。どちらにせよ、如月を過ぎれば婚礼には向かぬ月ゆえ今から妃を見繕った所で間に合わぬ。水良のことはそなたに任せよう」
「ありがとうございます」
「心を尽くせ。そなたを信じている」
 床に手をついて馨君が再び平伏すると、惟彰は扇を額に当てて目を閉じた。
 やはり…辛いな。
 水良を愛していると、この口が言うか…そう思うだけで、心が引き裂かれそうに痛んだ。息苦しさを悟られないように静かに呼吸を繰り返して、惟彰はジッと馨君を見つめた。水良、お前に何があったのか私には分からない。だが…主上の元で宿直をした夜、何かを聞いたのだ。それが馨君に決断させた…何か。
「馨君」
「はい」
 馨君が顔を上げると、惟彰は少し言葉を選んでから再び口を開いた。
「そなた、しばらくここから出仕するのか」
「…はい、そのつもりでございます。しかし」
「なれば、内裏の女房を二人差し向けよう。そなたの側近くで使うがよい」
「? 女房なら、こちらには三条邸より大勢来ておりますゆえ」
「そなたの見張りだ、馨君…私はそなたのことは信用しているが、水良のことは信用できぬ」
 ニヤリと笑って、惟彰は立ち上がった。内裏へ戻る。そう言って、慌てて立ち上がった馨君をチラリと横目で見ると、惟彰はふいに馨君に腕を伸ばしてその華奢な体を抱きしめた。
「こ…惟彰さま!」
 焦って馨君がそれを遮ると、拒まれるがままに手を離し、惟彰は御簾を押して廂へ出て行った。誰か! 女房を呼ぶ惟彰の声が大きく響いた。力を込められた手の感触が肩に残って、馨君はカアッと赤くなってギュッと目を閉じてから、惟彰を見送るために廂へ続いた。

 
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