氷点



(陸)


京で沖田に出会い、土方との関係を知ってから、ひとつだけ斎藤に判ったことがある。
江戸を離れる仕儀に相成ったのは、人を斬った故だが、それを仕組んだのは土方だと。
それは、土方の京での人となりを見て、斎藤が確信した思いだった。



斎藤が試衛館に転がり込む羽目になったのは、沖田と出会ったのが切欠だった。
斎藤は御家人の次男坊だったが、剣の道が好きで、あちこちの道場を渡り歩いていた。
沖田と出会ったときも、ある道場で立合い、その結果から帰り道に待ち伏せに合い、そこの門弟たちと乱闘になっているときだった。
いくら腕が立つといっても、多勢に無勢。一人の斎藤に対し、十数名の男たちでは、斎藤の分が悪かった。
そこをたまたま通りかかった沖田が、斎藤の助太刀をしたのが最初だった。
この時の乱戦の最中、斎藤が見た沖田の剣捌きが忘れられず、試衛館の沖田と名乗った男を、斎藤は後日菓子折りを持って礼を兼ねて訪ねた。
『試衛館』と大書された看板の掲げられた門は、ところどころ傷んでいて、ここを訪れるのに探したときに聞いた面々が、
「ああ、あの……」
と、言葉を濁したわけが分かる気がした。
その門を潜り入ろうとしたところ、中から勢いよく人が飛び出してきて、斎藤はぶつかりそうになった。
「おっと、悪いね、兄さん」
持ち前の反射神経で、体をかわしたが、
「あれっ? あんた?」
その男に、まじまじと顔を覗き込まれて、斎藤は身を引いた。
「あんた、あの時の……」
男に見覚えのない斎藤は、沈黙を持って応えたのだが、
「俺を覚えてないのか? でも、ここに来たってことは……」
首を捻る相手と、その言葉に、この男が沖田と名乗る男と共に、助太刀してくれた原田という男だと漸く気付いた。
そう、あの時の乱闘の加勢をしてくれたのは、沖田ともう一人、この男だった。
「ああ、あんたは……」
「漸く、思い出してくれたかい?」
こうして見ると結構な美丈夫だったが、全く斎藤の意識に入っていなかったようだ。
「あんた、総司しか、眼に入ってなかったようだったからなぁ」
あっはっはっ、と豪快に笑われ、斎藤はそれを遮るべく、声を出した。
「あの……」
「ああ、あんたの用は、総司にだろ。あっちにいるぜ」
自分の出てきた左手を指差して、
「俺が逃げ出したからな。後はあんたが上手く相手をしてやってくれよ」
そう言って、斎藤の肩をぽんっと、一つ叩き表へと出て行った。
斎藤には何のことか分からなかったが、とりあえず教えられた左手の方へ歩いていった。
廻ってみると、奥に道場が見え、その前の庭で、男が一人上半身を晒し、汗を拭っていた。
斎藤が再度、会いたいと思った男が。
斎藤の気配に気付いた沖田が振り向くと、そこに斎藤の姿を見つけ、
「あれ? あなた……」
慌てて着物をちゃんと着て、斎藤の方へと歩いてきた。
「その節は、世話になった」
斎藤が、手土産の菓子を手渡し、頭を下げると、
「その礼を言いに、わざわざ?」
沖田は、首を傾げる幼い仕草で、聞いてきた。
「ああ」
「そんなの、別に良かったのに。でも、折角だから頂いておきますね」
斎藤が頷くと、沖田は却って済まなそうに言いながらも、斎藤の品をつき返したりする遠慮を見せずに、受け取った。
「えっと、確か斎藤さん、でしたよね」
「ああ」
沖田が、斎藤の名を確認するように聞いてくるのに、頷くと、
「今、暇ですか?」
と、沖田は聞いてきた。
「忙しかったら、ここへは来ない」
意図が分からずとも、斎藤がそう応えると、
「そうですね、ごめんなさい。変なことを聞いて。でも、よかったら、一手どうですか?」
ぺろりと舌を出して、謝りながら、沖田は竹刀を振る仕草をした。
つまり、試合をしようということだろうか。
そう思って斎藤が問うと、
「そうですよ。どうですか? この前の斎藤さんの剣を見て、一度手合わせをしたいなぁ、と思っていたんです」
斎藤が、わざわざ礼を言いに来たのは、沖田の剣がもう一度見たかったからだ。
その機会を逃がすほど、斎藤は馬鹿ではなかった。
しかし、いいのだろうか?
道場主の許可も得ず、他流派と試合などをして。
普通道場は、他流試合を嫌う。
道場破りが来た場合も、極力避けようとするのが常だった。
負ければ、自派の尊厳が危ういからだったが。
それを危惧して、斎藤が言えば、
「大丈夫ですよ。私がここの塾頭ですから。私がよいと言えば、先生も何も言いません」
塾頭。その言葉に斎藤は驚いた。
確かに剣の腕は、先日見て分かっていたが、それにしてもこの若さで、師範代ではなく、塾頭とは大した者だ。
歳は、斎藤とそれほど変わらない――どちらかといえば、下の――ように、見えるのだが。
だが、誰も文句を言わないとなれば、斎藤は応じるのに吝かではない。
「分かった。そちらに不都合がなければ、それでいい」
「本当ですか? 嬉しいなぁ。じゃあ、早速」
沖田は、たった二度目の対面となる斎藤の手を掴み、道場に引っ張って行った。



面など防具を一切付けず、木刀を寄越した相手に、斎藤は苦笑いながら、受け取った。
それだけ自分に自信があるということか。
そして、斎藤の腕も、それ相応と認めていると言うわけだろうか。
そう思うと、浮き立つような嬉しさを斎藤は覚えた。
木刀を構え、蹲踞し対峙した、その途端、幼い相手の雰囲気が一変した。
背後に焔が立つような、その気迫。
静謐な水面を思わせる眼差し。
乱闘の最中に、斎藤が眼を奪われた、その姿がそこにあった。
乱闘後の姿との差から、思わず夢幻かと思った姿が。
ぞくぞくするような快感が、斎藤の背を駆け上がる。
今までに感じたことのない高揚感に、斎藤は包まれた。
そう、斎藤の意識には、この男の剣を見たときから、この男の事しか意識に入らなくなってしまった。
沖田の眼に自分の姿を、ずっと留めておきたい衝動に駆られつつ、斎藤は木刀を操り、沖田との立合いを心の底から楽しんだ。



半刻、二人して汗みずくになり、お互いに満足するまで、それは続けられた。
ふいにどちらからとなく、木刀をひき、礼をした。
「ありがとうございました」
にっこり笑った沖田の笑顔が、斎藤に眩しかった。
それは、決して武者窓から差し込む、夕日ばかりの所為ではなかったと思う。
斎藤から木刀を受け取り、棚に直す沖田の後姿を見詰めていたが、
「汗を流しましょう」
と、沖田に言われて、最前沖田の居た道場横の井戸へと降り立った。
先に浴びてて下さいと言われ、手拭を取りに行った沖田を見送って、斎藤は高揚した体を静める為に、頭からざぶりと水を被った。
そこへ沖田が戻ってきて、同じように頭から水を被り、笑いかけた。
「ああ、いい汗かきましたよ。さすがは斎藤さんだなぁ。思ったとおりだ」
「それは、こっちの台詞だ」
本心から斎藤が言うと、
「そうですか? そう言って貰えると、嬉しいなぁ」
沖田は、にこにこと笑って、相好を崩した。
「さっきは左之さんに逃げられて、不貞腐れていたのだけど……」
元結を解き、沖田は濡れた髪を拭って、
「いなくなってくれて、良かったかも」
手拭を肩に掛けた。
「左之?」
「ええ、左之さん。ほら、前のとき、私と一緒に居たでしょう?」
先程、門前でぶつかりそうになった原田という男のことだと、斎藤は思い至り頷いた。
「あの人と、稽古をしていたんですけどね。飽きたとか言って、逃げられてしまって」
それで、原田が沖田の相手を上手くしてくれと言ったのかと、漸く合点がいった斎藤だった。
「ああ、動いたから、お腹が減りましたね」
沖田は腹を押さえる仕草をして、
「そうだ。斎藤さんから頂いたもの、今頂いてもいいですか?」
良いことを思いついたという風に、斎藤を見た。
「ああ、あんたに持ってきたんだ、食べたらいい」
「そうですか。では、今お茶を持ってきますから、一緒に食べましょう」
嬉々とした声でそう言って、斎藤の返事も待たず、沖田は駆け出していった。




あれ〜? 斎藤と沖田の出会いが、つい長くなってしまった。
なかなか、土方さんが出てこない。困ったぞ。



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