氷点



(漆)


試衛館の道場主の近藤とも、沖田に引き合わせられ、挨拶を済ました斎藤だったが、確かに近藤の人柄に接すると、原田たちのような食客というか、居候というか、そういう連中が居座るようになるのも、頷けた。
近藤の大らかさというか、鷹揚さが、試衛館を居心地の良いものにするのだろう。
沖田との立合いを見た近藤から、その腕を褒められ、沖田との稽古に是非とも通ってくれと、懇願されるように言われれば、斎藤も悪い気はしない。
斎藤は、沖田と手合わせするために、足繁く試衛館に通い始めた。
しかも、訪れる時は、甘いものが好物だといった沖田に、必ず手土産を持って。
もっとも、その手土産は、気楽に来てくれとの言葉どおり、沖田と斎藤の分である饅頭二つとか、簡単なものだったが。
そして、甘いものが苦手な斎藤は、いつもほんの少しだけおざなりに食べ、残りを沖田に渡して、美味しそうにそれを食べる沖田を見るのが、日常と化しつつあった。



そうして、通ううち、いつしかその居心地のよさから、斎藤は試衛館に居ついてしまった。
もともと、兄との折り合いが悪くしていたところへ、女との揉め事で家に居づらくなってしまったのだ。
それを、愚痴るともなしに、沖田に話したら、
「じゃぁ、ここへ来ればいいじゃないですか?」
あっけらかんと、言われてしまった。
「ここへ、って」
斎藤は沖田の真意が掴めず、沖田の顔を見詰めて口篭った。
「だって、家に帰りたくないんでしょう? だったら、ここに住めばいい」
にこにこと笑いながら、話を進める沖田に、斎藤はたじたじで。
「左之さんたちだって、ごろごろしてるんだから、もう一人ぐらい増えたって、どうってことないですよ」
「いや、しかし……」
「ねぇ、そうしましょうよ。そうすれば、斎藤さんといつでも気軽に、もっと手合わせできるのに」
「足らないのか?」
ほぼ毎日、通ってきているというのに、足らないというのだろうか?
「だって、心配なんです」
「心配?」
「私は剣が大好きで、剣さえ握っていられれば、それでよいし、他はいらないけれど……」
いつもの闊達な雰囲気からはほど遠い表情で、沖田は地面にしゃがみ込んだ。
「いつか斎藤さんが、私と剣を交えたくなくなって、ふいにここへ来なくなる時が、来るんじゃないかって」
地面に、落ちていた小枝で、何とも知れぬ模様を描いていた。
「だけど、ここに住んでくれるようになれば、急に居なくなることはないでしょう?」
そう言って、寂しさを滲ませた眼で、斎藤を見上げた。
「…………」
それに対して、何と応えることが出来るのか迷う斎藤だったが、それでもこの身一つで、沖田の寂しさが和らぐのなら、傍に居てやろうと思った。



近藤は、斎藤が厄介になると願い出ても、総司も喜ぶだろうと、鷹揚に言って簡単に許してくれた。
それこそ、拍子抜けするぐらいに。
そして始まった、沖田と剣を交え、過ごす日々のなんと楽しかったことか。
それまでの日常と違い、色鮮やかな日々だった。
試衛館で住まうようになってから、沖田以外には無口な斎藤も、他の食客連中にも慣れつつあった。
まずは、原田。
沖田以外で、最初に出会った人間だけに、一番馴染むのは早かった。
性格は、水と油のように、斎藤とは反対な男だったが。どちらかといえば、沖田同様、陽気な男だ。
だが、この男が、斎藤と同じだったところは、原田も沖田に釣られて、試衛館に入り浸ったことだ。
なんでも、原田の喧嘩に沖田が行き合わせ、怪我をした原田を連れてきたのが最初らしい。
次は、永倉。
一本気な性格の男だ。
この男は、原田より後に、試衛館に住み着いたらしい。
松前藩を脱し、剣術修行に出ていた時に、試衛館に来合わせ、沖田に天狗の鼻を折られて以来だという。
もっとも、沖田に言わせれば、運ですよ、と言うことだが。
確かに、永倉と手合わせをして、いい腕だと斎藤も思うが、それにも増して沖田の剣の腕は、天稟だと思う。
後は、食客として一番古い山南。
歳も近藤より、僅かに年長だが、温厚で学のある男だ。
沖田が内弟子として試衛館に入ってから、ほどなくして入ってきたらしく、沖田の勉学を見ていたそうだ。
別の流派を修めた男だが、天然理心流を一から学び直し、他の食客連中と違って、門弟にも指導をしている。
この山南を慕って、試衛館に居ついてしまったのが、藤堂だ。
同じ流派を学んでいた山南を、追い駆けるように試衛館に来たのだと、沖田が言っていた。
もっとも、藤堂は普段は大人しく生真面目な性質で、斎藤と余り口を利いたことはなかったが。
それから、試衛館に居る連中はといえば、門弟の井上と土方の二人だった。
この二人は、近藤や沖田と同じく、先の道場主・周斎の弟子で、順序としては、井上・近藤・沖田・土方となる。
もっとも、歳は井上・近藤・土方・沖田となり、沖田が一番下になる。
その所為か、腕では上位に来るはずの沖田だったが、歳の離れている所為もあり、皆に弟のように可愛がられていた。
井上は、道場の内側の雑用を一手に引き受け、土方はその愛想のよさから、渉外担当をしていた。
この二人が居なければ、試衛館は成り立っていかなかったかも知れない。
もっとも、沖田も内弟子からの癖のようなもので、二人を頻繁に手伝ってはいたが、二人は沖田の塾頭としての立場から、極力そういったことから遠ざけようと腐心していたようだ。



だが、斎藤のその充実した日々も、余り長くは続かなかった。
何故なら、斎藤が人を斬ったからだ。
試衛館に転がり込む羽目になった女との揉め事が、招いた結果だった。
その切欠は、こうだ。
もともと、斎藤にその女との面識は一度だけしかない。
女は斎藤が、道場破りらしきことをした、その道場の娘だった。
勝気な娘で、道場で門弟たちを打ち据えた斎藤を見て、一目惚れをしたらしい。
そして、あろうことか道場の高弟で、娘の婿にと父親が考えていた男を、斎藤が好きだと言って、皆の面前で振ったのだ。
しかも、斎藤はその後、女に胸の内を告げられて、興味もなく即座に断っていた。
振られた男にしてみれば、面目は丸潰れだ。斎藤には剣でも、女にも負けたのだから。
自分は好いた女に振られ、その女をさらに振った斎藤を憎み、罵るだけでは男は飽き足らなかった。
それで、斎藤に仕返しをするべく、付け狙ったのだ。それも、一人ではなく、徒党を組んで。
家にまで押しかけそうな勢いの男に、辟易して斎藤は試衛館に転がり込んだのだ。
そして、暫くは穏当な日々が続いていたのだが、ある日を境に斎藤は再び、男に付け狙われることになった。
それも、必ず斎藤が一人で試衛館を出掛ける日に。
最初は単なる偶然だと思った。
けれども、それが何度も重なってくると、そうは思えなくなっていた。
斎藤が一人で出掛けると、必ず奴らは襲ってくる。
沖田や原田と出掛けても、そんな気配など一切しないのに。
もっとも、二人とも腕が立つから、加勢されない様にとの配慮かもしれないが。
斎藤が一人歩きをするときを、どこかで見張っているかのようだった。
しかし、一体何処で知れたのだろうか、斎藤が試衛館に居ることに。
親にさえ、告げていないというのに。
けれど、どこからか漏れているのだ、斎藤の動きが。
そして、度重なる奴らの行為に、斎藤は苛立ちを募らせていた。
それほど執拗に、また奴らの狙いもだんだん酷くなっていった。
そう、対峙する沖田に、
「近頃斎藤さんの剣が変わったねぇ」
と、言われるほどに。
最初は斎藤を痛めつけるだけが、目的だったようなのに、三月も経つ近頃は明確な殺意を持ってきていた。



そして、とうとう、この日、死人が出た。
目が血走り、とても尋常でなくなっていた男に、斎藤もとうとう、あしらうだけでは済まなくなってしまっていた。
いや、付き纏われる鬱陶しさから、忍耐の限界に来ていたということもあった。
また、手加減できるだけの余裕がなかった所為でもある。それほど、人数が多かったのだ。
いつもは軽く傷つけるだけだった斎藤の剣が、最初から明確に斬ることを目的として、振舞われた。
そうなると、斎藤の剣の腕だ。とても小競り合いの様相ではない。
血飛沫が上がり、人の断末魔の声が聞こえた。
当然、斎藤の腕にも、人の死としてそれは伝わったが、初めての人斬りで、血に酔い始めていた斎藤には届かなかった。
斎藤が我に帰る頃には、斎藤は他人の血で血塗れになり、足元には二人の死体が転がり、後の人間たちは跡形もなく消えていた。
その様を誰にも知られなければ、それはそれだけで済んだ筈だ。
ここに死体が転がっていたとしても、江戸では治安も悪くなっており、人が斬られることも日常茶飯事になっていたから。
が、間の悪いことにそこへ誰かが注進したのか、役人が現れてしまった。
斎藤は慌てて、その場を逃げ出した。
死んだ男たちと、斎藤の諍いは、調べればすぐに分かることだ。
役人に、人相風体を知られてしまっては、取り繕うことなどできはせぬ。
試衛館に迷惑を掛けることを恐れ、沖田に暇を直接告げる間もなく、斎藤は伝手を頼って、江戸を出奔した。
いずれ、斎藤のしたことは知れるだろうが、斎藤が唐突に姿を消すことに、沖田はきっと心痛めるだろう。
人を殺めた事ではなく、その事への後悔に、後ろ髪を引かれながら、斎藤は姿を晦ました。




やっと、斎藤が人を斬り出奔してくれました。
ここまでが長かった〜〜(溜息)



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