小さな壜につめられた毒々しい色の液体は、お世辞にも体によさそうには見えない。赤黒い血に似た色は、せめてもう少しどうにかならなかったものか、と虎徹はぼんやり考える。
医務室に一人だけ呼び出されたのがつい先ほどのことだ。行ってみると斉藤ではない白衣の男が虎徹を待っていた。中肉中背の、虎徹よりはいくらか若そうな男は、神経質そうな仕草でかけた眼鏡を持ち上げながら、開口一番、
「これを飲んでみないか。……君の減退した能力を取り戻せるかもしれないよ?」
などと言う。どこからどう見ても胡散臭い申し出であり、薬だった。
だがしかし首からかけた社員証は明らかに本物で、健康診断のときなどに何度か見かけたことのある男がアポロンメディアの研究者であることは間違いないようだった。
「まだ実験段階の薬だが君が賭けてみる価値はあると思う。まずは一週間、朝昼夜三回ずつこのカプセルに詰めて飲んでみて欲しい。何大丈夫心配はいらない。完成まで後一歩のところまで来ているんだ。君の協力があればきっとあっという間に完成する。能力が戻れば君だって嬉しいだろう? 君に昔のような力を取り戻して活躍もらうことは我が社にとってもプラスになる」
男は非常識なほど早口で一息にそう言った。よく息がもつものだと感心してしまう。斉藤といい、この男といい、研究者というのは普通に喋ることができない生き物らしい。
虎徹は強引に右手に壜を、左手にカプセルが入った袋を握らされる。
塞がった右手と左手を、虎徹は交互に見たあと、問うた。
「あの、このこと、斉藤さんは……?」
案の定、男はさっと目を逸らす。
「斉藤くんにはもちろん秘密で頼むよ。彼はスーツの専門家だが、NEXT能力の専門家ではないからね! こういったことはわからないと思うんだ」
まあ確かにその通りだな、と虎徹も認める。男が言うことは、決して間違ってはいない。斉藤はメカニックであり、医療チームや研究チームではないからだ。
−−だがしかし、である。
斉藤が知らない薬を虎徹が飲むことは、普通に考えてあり得ないのだ。
「じゃあ、あとは君の判断に任せるよ。ぜひ、ぜひぜひ僕を信じて飲んでみてほしい! 明日また同じ時間にここで待ってるよ! それじゃ」
等といって男は医務室から去り、虎徹は二つの薬をもう一度交互に見てから、溜息を吐いた。
デスクに戻ると、上司である女性も、バーナビーもまだ戻ってきてはいなかった。昼休み中なので、外に食べにいったのだろう。
虎徹自身、食事をすべき時間帯だったが、今の一件ですっかり食欲など、どこかへいってしまった。
机の上に薬の入った壜と、カプセルが詰まった袋をおいて考える。
減退した能力が取り戻せる、というのは美味しい話だと思う。虎徹自身、本当にそんな薬があるのならば喉から手がでるほど欲しい。
もしこれが、虎徹が能力の減退に気づいたばかりのあの頃であれば、一も二もなく飛びついていただろう。
だが能力の減退が始まってすでに一年以上が経過し、虎徹も随分冷静に考えることができるようになった。
減退した能力を元に戻すということは、そう簡単なものではないのだ。
何しろ未だにどうしてNEXTが生まれるのか、その仕組みすらわかっていないのが現状である。能力が発現するきっかけや条件すら解明されてはいない。しかも虎徹のように能力を減退させるNEXTの数は、ごく僅かだという。これで研究など、進むはずがなかった。
なのにそれでどうして、能力を復活させることのできる薬ができるだろう。普通に考えればあり得ない。
男は実験段階だ、と言った。
要するにその言葉がすべてを表している。
虎徹は人体実験に誘われているのだ。
そもそも正式な実験ならば、虎徹が一人呼び出されること自体おかしい。だからこれは、非公式な実験なのだろう。ロイズですら、知らないかもしれない。
さてどうしたものか、と指先で壜を転がしたときだった。
「何です、それ」
突然背後からかけられた声に、虎徹は椅子の上で飛び上がった。
「ば、バニー! 驚かせるなよっ!」
よほど深く考え事をしていたらしい。バーナビーが戻ってきたことに、まったく気づいていなかった。
「別に気配を殺してたわけでもないんですけどね」
バーナビーは不本意そうに言うと、それから虎徹が机の上においた壜とカプセルを見て繰り返した。
「で、それ何なんです?」
あー、と虎徹は声をあげて、しまったと思う。あの男の口調からして、周囲にあまり話してほしくなさそうなのは明らかだ。
だが咄嗟に嘘が思いつけるほど、虎徹は器用ではない。
「な、何に見える?」
質問で質問に返せば、バーナビーは顔をしかめた後さくっと言った。
「毒」
虎徹は肩を落とす。確かに、どこからどう見ても毒の色だ、これは。
「少なくとも、体にいいものには見えませんね」
「……だよなあ」
「で、正解は何なんです? ヤバイ薬ってわけじゃないんでしょう?」
何とも答えようがない質問だった。ヤバイといえば、これ以上なくヤバイ気もする。
黙りこんでいると、不審げに名前を呼ばれてしまった。
「虎徹さん?」
これだけつきあいが長くなってくると、互いの嘘は何となくわかるようになる。
一瞬、誤魔化すかどうか、迷った。だがしかし、隠しておいて後でばれたときのほうが面倒だ、と考え直す。
バーナビーは昔から、嘘や隠し事が大嫌いな男だった。一度へそを曲げると、バーナビーほど厄介な男はいない。経験上よくわかっている。
先ほどの研究者に心の中で謝る。
「減退した能力を、戻す薬……みたい?」
疑問系になるのは、その効力を信じていないからだ。
「は!?」
バーナビーは眉を寄せる。眉間に寄った皺に、虎徹はうわあと引き気味になる。
「減退を戻す薬なんて、あるんですか?」
「さあ? でも一日三回飲めってさ」
「……虎徹さん、それ、誰から貰ったんです?」
バーナビーが纏う空気がどんどん冷えたものに変わっていく。
「誰だろ?」
社員証の名前は見たが、覚えていなかった。
「ロイズさんや斉藤さんは、ご存知なんですか?」
「知らないんじゃないかなあ」
「完成してるって、言われました? その薬」
「いや、実験段階だって」
「人体実験ってことですか」
「かも」
のんびりとした虎徹の台詞に、バーナビーは今度こそ黙りこんだ。
ぐっと握られた拳と、低く吐き捨てられた台詞に、バーナビーの怒りが滲んでいる。
「……ふざけてる」
バーナビーの手が伸びて、虎徹の前から薬とカプセルを奪い去った。止める暇もない。
「これは僕が預かります。虎徹さんが、危険な実験につきあう必要はない! この件は、ロイズさんを通して、正式に抗議しますからね。こんなこと絶対に認めないっ!」
バーナビーの激しさに、虎徹は呆気にとられる。まさかバーナビーがここまで怒るだなんて思ってもみなかった。
いいですね、と確認されて、こくこくと頷くしかない虎徹だった。
すぐに飛び出していこうとするバーナビーを辛うじて留めて、隣の席に座らせる。このままの状態でバーナビーをロイズのところにやるのは危険だと思ったのである。
何しろこう見えて、頭に血がのぼったバーナビーは何をするかわからない。
「ま、まあまあ落ち着いて。ほらコーヒーいれてやるから! これ飲んでっ」
新しくコーヒーをついで、椅子に座らせたバーナビーに渡す。
バーナビーがある程度怒りを納めたのを見て、虎徹はほっと息を吐く。
「……でも意外だったな」
「何がです」
「バニーなら、俺の減退止める薬、すすめてくるかと思った」
虎徹がヒーローであることを、誰より認めてくれているのはバーナビーである。虎徹がヒーローにどれだけ思いいれがあるかも知っている。恐らく減退した能力に、どれだけ虎徹が歯がゆい思いをしているかも。
バーナビーは未だ怒りを抑えきれない様子でぶつぶつと言う。
「きちんと完成した薬なら、僕だって賛成しますよ。でもこれは違うじゃないですか」
「まあそうだけどー、でもほら誰かが実験しないと、完成しないわけで」
そもそも減退中の能力者など見つけるほうが難しい。
どんっとバーナビーが拳で机を叩いた。
「だからといって、あなたが実験台になる必要はない!」
大体、と続けたバーナビーの怒りの矛先は、虎徹へと向けられる。
「虎徹さんも虎徹さんです、こんな怪しい薬、受け取ってこないでくださいっ。どうしてすぐに断らないんですかっ!」
「え、だ、だって断る暇が……」
「だってじゃありません。子どもですか、あなた」
出会ったばかりの頃のように冷ややかな視線を向けられて、虎徹は内心悲鳴をあげる。
「お、オジサンだけど……」
「こんなことにはつきあってられない、ときっぱり言うくらいどうしてできないんです? 馬鹿なんですか? アホですか? こんな薬飲んで何かあったら、どうするつもりだったんです? 人体実験ってこと、真剣に考えました?」
俺だって飲む気はなかった、とは言い訳できない雰囲気だった。バーナビーに叱られるのは、久しぶりである。こういうときのバーナビーには、ただひたすら謝るほうがいい。
「いいですか、今度こんな薬貰ってきたら……」
一度言葉をバーナビーは切る。
「暴れます」
きっぱりと言い切ったバーナビーに、虎徹は衝撃を受ける。
「あ、暴れるって、バニーちゃんが?」
「大暴れします」
「大暴れ……」
そんなバーナビーが見たいような見たくないような。だが虎徹の能力が減退した今、バーナビーを止めることができる人間はいないと言ってもいい。
「そうさせたくなったら、気をつけてください。
「気をつけます……」
肩を落とした虎徹に、バーナビーはそうしてくださいと頷いた。
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