いい匂いがして目が覚めた。
 どこからか食欲をそそるような匂いがする。普段のバーナビー宅では、決してしないような匂いだ。
 ベッドの中でバーナビーはうっすらと目を開き、カーテンから差し込む光で、もう朝であることに気がつく。そして自分がいつぞや貰ったピンクの兎のぬいぐるみを抱きしめていることを遅れて自覚した。
 誕生日プレゼントだったそのぬいぐるみは、普段からベッドの上に置かれている。けれどもそれをこうやって抱きしめて目覚めるのは、これが初めてだった。
 間抜けな顔の兎を暫く眺め、バーナビーはしばらくぼんやりとする。
 体温が低く、低血圧のバーナビーは、朝が弱い。
 目覚めても、なかなかすぐに動き出せないことがほとんどだ。昔はそれでよく虎徹から、からかわれた。虎徹は寝ぼけるバーナビーを笑い、けれども決して強引に起こそうとはしなかった。バニー、と呼ぶ虎徹の甘やかすような声――。
「虎徹さん?」
 ふいにはっきりと目が覚めた。
 昨日、虎徹と一緒に飲んだことは覚えていた。虎徹を連れて、会員制のバーで日本酒を飲み、途中で記憶が途切れている。
 自分はどうやってここに帰って来たのか。
 それが、今どこからかしているいい匂いと結びついて、バーナビーはがばりと起き上がった。
「虎徹さんっ」
 そのままキッチンまで走る。
 キッチンには、見間違えることは絶対にない後姿が見える。
「おー、やっと起きたか。おはよう、バニー」
 肩越しにこちらを振り返り、虎徹が機嫌良さそうに言う。低血圧のバーナビーと違って、虎徹はいつも朝すっきりと目を覚ました。それは今でも変わっていないようだった。
 バニー、と呼ばれてバーナビーは肩から力を抜いた。
 虎徹がここにいる、というただそれだけのことに、他のことは何もかもがどうでもよくなった。
 いい匂いは、パンを焼く匂いだ。コーヒーメーカーが、こぽこぽと音をたてて、コーヒーを作っている。フライパンの中では、目玉焼きとベーコンが一緒に調理されていた。
「もうちょっとで朝食できるぞ。そろそろ起こしに行こうかと思ってたとこだったんだ。起きてきてくれてよかった」
 ほら椅子に座れ、と言われてバーナビーは素直に食卓に着いた。
 すぐにワンプレートにまとめられた朝食が、バーナビーの前に置かれる。パンと目玉焼きとベーコン。それにちぎったレタス。
 虎徹がコーヒーメーカーから、コーヒーを二人分マグカップに注いで持ってくる。
「じゃ、食うぞ」
 いただきます、と両手を合わせて虎徹が食事を始める。
 レタスを食べるとき、少し不満そうな顔をするのは、恐らくマヨネーズがないからだ。バーナビーは、今度マヨネーズを買っておこうと思った。虎徹が、こうやって来てくれる日のために。
「バニー? 食わないと、遅刻するぞ」
 促されて、バーナビーもようやく手を動かす。
 キッチンは明るく、静かで、幸せな空気が漂い、バーナビーはそれが自分を満たすのを感じた。ここ一年で、一番幸せな朝だと思った。


 出社すると、まだ部屋には誰の姿もなかった。虎徹はシャワー浴びて着替えてくるといって一度家に戻ってしまったから、恐らく来るのはぎりぎりだろう。
 自分の机を見れば、十冊ほどの雑誌が積まれていた。
 バーナビーはまずコーヒーメーカーをセットしてから、椅子にすわり雑誌をチェックし始める。
 ヒーロー関係の雑誌と、インタビューを受けた一般雑誌、それにゴシップが中心の週刊誌。自分たちの記事が出ているものはすべて取り寄せてもらうように会社に頼んであった。取りこぼしはほとんどない。
 アポロンメディアを通してオファーがくる雑誌に関しては、それほど心配はしなくてもいい。バーナビーがチェックするより以前に、会社のほうできちんとチェックされているからだ。二人のマイナスになるような記事は、ストップがかかっている。
 ――いつだって問題は、あることないこと書き立てるゴシップ誌のほうなのだ。
 今日発行されたものが二冊。
 それをぱらぱらとめくり、バーナビーは朝のいい気分が一気に霧散していくのを感じる。
 雑誌には、ヒーローに復帰したワイルドタイガー&バーナビーのことが、面白おかしく書かれてある。自分に関するものは、別にどうでもいい。けれども、虎徹に関するものは、見過ごすことができなかった。
 能力が減退しているにもかかわらず、バーナビーを離さないロートルヒーロー。あけすけな悪意をもって書かれた記事を最初から最後まで読み、バーナビーは雑誌を引きちぎりたい衝動をぐっと堪える。
 虎徹のことを何も知らない人間達は、彼のことを好き勝手に評価する。
 どれだけ彼が、バーナビーよりもよほどヒーローらしいか理解もせず。どうしてバーナビーが戻ってきたのかも忘れて。虎徹がバーナビーの足手まといになっているのだと糾弾する。
 ふざけるな、と叫びたいが、叫んだところでどうにもならない。
 バーナビーは深呼吸をひとつして、雑誌を閉じた。
 付箋をはり、虎徹の目につかないように引き出しの奥にしまった。後でしかるべき措置をしてもらうためだ。こういうとき、アポロンメディアが大企業であってよかったと思う。マーベリックには恩義などまるで感じないが、彼が作り、そしてバーナビーに残したこの会社は案外役に立つのである。
 椅子から立ち上がり、出来立てのコーヒーをマグカップに注ぐ。コーヒーを一口飲むと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
 できれば、虎徹が雑誌を見ないでいてくれるといいと思う。虎徹が、あんな記事に傷つけられることはないのだ。
 もちろん虎徹は、記事を見ても苦笑ひとつするだけだろう。バーナビーにはわかっている。いつもは子どもっぽい人なのに、肝心なところでは虎徹はやはりバーナビーよりも遥かに大人なのだ。長くヒーローをしていたせいもあるかもしれない。メディアに攻撃されることに、虎徹は案外慣れている。
 虎徹はきっと怒りもせずに許すだろう。気にもとめないかもしれない。
 けれどもバーナビーは許す気はないし、スルーすることも出来ないのだった。
 壁のディスプレイに表示された、現在のヒーローランキングをバーナビーは立ったまま眺めた。
 現在バーナビーは二位。一位のブルーローズとは、僅かなポイント差だ。あと一回か二回、犯人を捕まえればきっとトップに立つことができる。
 以前は、ポイントを獲得し目立つこと、そしてKOHになることはバーナビーにとって重要なことだった。けれども今となっては、そのどちらもまるで興味をひかれない。
 虎徹には何度も言っている通り、一部リーグではなく二部リーグに移ったって、今のバーナビーはまったく構わない。
 KOHの称号を、バーナビーが独占した期間は数ヶ月だ。未練は全くないが、自分がKOHになれば虎徹は喜んでくれるだろうか、とふと思った。虎徹が望んでくれるなら、KOHを目指すことも吝かではない。
 KOHになれば、それだけバーナビーの発言力、影響力は増す。
 それはもしかすると、今後虎徹と相棒でいるために必要な力かもしれなかった。



[HOME][6←BACK][NEXT→8]