復帰してからの虎徹は、以前よりも真面目にトレーニングに励むようにはなったものの、トレーニング嫌いはそう変わらないようだった。
 トレーニングセンターに行って、今日の分のノルマの分を果たしてしまうと、あとは他のヒーローたちと喋ったり、休憩をしたりして過ごしていることが多い。
 反対にバーナビーのほうは、以前よりも過酷なトレーニングメニューを自分に課している。五分しか持たないその能力の性質上、最終的に頼れるのは自分の身体ひとつだ。虎徹の能力が短くなったことで、バーナビーはそのことをより一層強く感じることが多くなった。なのでメニューを見直し、それを禁欲的に毎日こなしている。
 毎日トレーニングセンターに通うことは、ヒーローとしての義務のひとつだが、通う時間帯は自由に任されている。バーナビーと虎徹の場合、日によってまちまちだ。相棒とはいっても、単体での仕事が入ることも少なくなく、そういうときはそれぞれ別の時間にトレーニングセンターへ行くことになる。
 今日もそんな一日だった。
 一人での取材を終えたバーナビーが、遅れてトレーニングセンターに顔を出すと、トレーニング機器が置かれた部屋はがらんとしていた。今日はまだ他のヒーローも来ていないらしい。
 しかも先に行ったはずの虎徹の姿も見えない。もしかして、トレーニングを終えて帰ってしまったのかとがっかりしていると、トレーニング機器の影にあるベンチで、虎徹が眠っているのを発見した。
 トレーニングウェア姿のまま、虎徹はベンチの上に仰向けに横たわり目を閉じていた。腹を出して寝ている犬か猫を連想させる姿に、バーナビーまで力がぬけた。
 足音を忍ばせて、ゆっくりと近づく。
 見下ろした虎徹の表情は、何かいい夢でも見ているのか幸せそうだった。緩んだ表情は無防備そのもので、軽く開いた口元からは涎が今にもたれそうだ。バーナビーはまったくと溜息を吐く。
 眠いならこんなところで横にならず、斉藤のところへでもいってカプセルを借りればいいのだ。そのほうがずっとすっきりするだろう。
 床に落ちた虎徹のタオルを拾い上げ、バーナビーは虎徹の頭側のあいたスペースに腰を下ろした。タオルは畳んで、邪魔にならないところに置く。
 硬いベンチで体は痛くないのだろうか、と思う。思えばバーナビーの家でも、虎徹はよく床にごろりと横になって寝てしまうことが多かった。硬いところで寝ることに、虎徹はそれほど抵抗感がないらしい。
 今日の分のメニューはもう終わったのか、それとも終わる前だったのか、それもよくわからない。
 眠る虎徹の顔を、バーナビーは久しぶりにゆっくり眺めた。
 こうして見ると、虎徹が整った顔立ちの男であることがよくわかる。口を開けばうるさいのでいつもは気づかないが、黙ってさえいれば虎徹は十分見られる男なのだった。
 日焼けした肌はきめ細かく、体はしっかりと鍛えられ年齢による衰えは見られない。アジア系の常として、虎徹もまた年齢よりも随分若く見え、髭がなければ二十代と言っても通用しそうだった。
 バーナビーが何よりも好きな琥珀色の目は、今は瞼の下に隠されている。
 髪に触れたい、とふと思った。
 虎徹の黒髪を指ですいて、頭を撫でたい。虎徹はそういうスキンシップが好きで、いつも猫のように気持ち良さげに目を細めたものだ。そして喉を擽ると、くつくつと低い声で笑う。
 バニー、と呼ぶ声を思い出す。
 いつもよりは甘い、舌足らずな声だ。
 ぴくりと指の先が震え、手が一瞬持ち上がる。けれどもバーナビーは、すぐに指を握りこむと手を元の場所に戻した。
 触れたい、と思うのと同じくらい、触れることはできない、とも思う。
 ……自分の手で、虎徹を傷つけたときのことを、一年たった今もバーナビーははっきりと覚えていた。記憶操作されていたから仕方ない、と虎徹は笑って許してくれたし、周囲も同じような反応だったが、バーナビーにとってはそんな簡単な話ではなかった。彼を追い詰め、殺そうとしたことは、バーナビーにとってトラウマだ。
 そんな手で、何もなかったように虎徹に触れられるわけがなかった。
 バーナビーは自分にさえ、虎徹が傷つけられることは許せなかった。
 ――今もかわらず、虎徹は自分の隣にいる。以前と同じ信頼を、バーナビーにくれる。それ以上を望むのは、欲深すぎるというものだ。
「骨まで食べちゃいたいっていう目よ、ハンサム」
 ふいに聞こえた声に、バーナビーは顔を上げる。
 いつの間にきたのか、ネイサンが離れた場所からこちらを見ていた。
 ヒーローの中では、アントニオに続いて虎徹と特に仲が良い男である。自身が企業のオーナーで、女言葉で話し、何を考えているのかさっぱりわからない男。
 ネイサンの何もかもを見透かすような目が、バーナビーは少し苦手だった。
 バーナビーは、まさか、と言う。
「食べませんよ。……そんな、もったいないことできません」
 バーナビーの返事にネイサンは肩を竦めると、ゆっくりと近づいてくると虎徹の寝顔を見下ろした。
 平和な寝顔ね、と鼻を鳴らしたネイサンに、バーナビーは何も言わずに微笑んだ。


 体が勝手に動いたのだ、というしかなかった。考える余裕などなかった。何しろ一分一秒の猶予もなかったのだから。
 崩れかけたビル、中に取り残された子ども――そして、そうと知って大人しくしておけるはずがないバーナビーの相棒。
 考えるより先に、バーナビーの体は動いていた。子どものためではなく、隣にいた虎徹を動かせないために、だ。ヒーローとしてはあるまじき動機だったが、事実なので仕方がない。
 もしバーナビーが一瞬でも遅ければ、虎徹が飛び込んでいったことは、火を見るより明らかだった。
 虎徹は人を見捨てられない。誰かを守ることは、虎徹にとって生きることそのものなのだ。それが子どもならばなおさらだった。自分の命と引き換えにしても、虎徹は助けようとする。それをバーナビーはよくわかっていた。
 虎徹のハンドレットパワーはとっくにきれ、バーナビーのそれは、まだ僅かではあったが時間の余裕が残されていた。
 だから、動いた。
 止める声が聞こえなかったわけではない。バニー、と呼ぶ虎徹の悲鳴のような声も。けれども、そのすべてを無視して、バーナビーは倒壊しかけたビルの中に飛び込んだ。
 無謀で、命を捨てるような行為だった。それを常に冷静であろうとするバーナビーがとるとは、誰も夢にも思わなかったに違いない。バーナビー自身でさえそうだった。虎徹が隣にいなければ、バーナビーはきっとその場から動きもしなかっただろう。
 ――結果から言えば、バーナビーは助かった。奇跡的に、ビルの崩壊の数秒前に、バーナビーは子どもを救出することに成功した。バーナビーが外に飛び出すのと同時に背後でビルは崩れ、上から落ちてきた瓦礫を弾いてくれたのはスカイハイがおこした風だった。
 泣き叫ぶ子どもを救急隊員に渡したバーナビーは、虎徹を探した。
 虎徹は少し離れたところに立っていた。
 ヒーロースーツのせいで、彼が今どんな表情をしているかはわからなかった。虎徹さん、とバーナビーが呼ぶよりも早く、ヒーローTVのインタビューが始まってしまう。
 今夜の番組内でのヒーローは、バーナビーであり、そのコメントを放送するのはヒーローTVとしては当然のことだった。そしてバーナビーは、それを拒否する権利もない。
 話は後で、と言いたくなるのを堪えて、興奮気味なインタビューに応じる。視界の端で虎徹が踵を返したのが見えた。引き止めたかったが、カメラの前でそんなことができるはずもない。
 そしてようやくインタビューから解放されたときにはもう、虎徹の姿は消えていた。コンビを組んで以来、こんなことは初めてだった。
 大急ぎでアポロンメディアに戻ると、虎徹はとっくな帰社し、スーツを脱いでいた。今はシャワーを浴びている頃だろうと斉藤から言われ、バーナビーはスーツ姿のまま足早に更衣室へ向かった。
 虎徹の顔をどうしても見たかった。焦るような気持ちで思う。
 更衣室に入ると、虎徹はすぐに見つかった。シャワーを浴びたばかりの様子の虎徹は、ロッカーに向かっていつもの服装に着替えていた。
「虎徹さん」
 バーナビーが声をかけると、ちらりとこちらに視線を寄越す。けれどもそれだけだった。
 金色の目には特にこれといった感情は浮かんでおらず、ただおざなりに「おつかれ」という言葉が吐き出される。
 いつもとはまるで違う虎徹の反応に、バーナビーは戸惑うしかない。
「虎徹さん……?」
「先に帰るぞ。お前もさっさと着替えて帰れ」
 着替え終えた虎徹が、いつもの帽子を深く被り、そう言って更衣室を出て行こうとする。バーナビーはとっさにその肩を掴んで引き止めた。
「虎徹さんっ」
「離せ」
 虎徹は淡々と言う。彼と自分の間に壁ができていることにバーナビーは気づき、焦る。こんなふうに虎徹から拒絶されるのは初めてだった。
「何か言いたいことがあるのなら言ってください。何なんですか、一体」
 バーナビーは混乱する。虎徹は感情をストレートに表現するタイプの人間だ。腹が立ったときは怒り、悲しいときは泣く。……こんな虎徹なんて、見たことがない。
「ねぇよ」
 バーナビーと目をあわそうとはせず、虎徹はそっけなく言う。
「嘘だ」
 断言したバーナビーが、逃す気はないのだと肩を掴む手に力を込める。
 しばらく黙り込んでいた虎徹は、やがて小さく息を吐いた。
 痛いから離せ、と言ってバーナビーの手を振り払い、虎徹はようやくバーナビーを見た。金色の目が、バーナビーを映す。
「どうしても聞きたいのか?」
「聞きたいです」
 こんな状態で別れたら、きっとどうしたらいいのかわからなくなる。
 バーナビーの返事に虎徹の手が動いて、バーナビーの襟元をぐいと掴み上げた。息が一瞬止まる。
「――どうして、さっき、あんなことをした?」
 いつもの虎徹らしからぬ、低く静かな声だった。
 やはり虎徹は怒っているのだ、と気づいてバーナビーは身構える。コンビを組んでから今まで、これほど怒った虎徹を見たことがないほどだった。まるで敵のように睨まれる。
 バーナビーは平静を装って答えた。
「あなたが行くより、僕が行ったほうが生存率が高いと判断したからです」
 虎徹が怒鳴る。
「お前だって能力切れかけてただろうがっ! 何が生存率だっ」
「切れかけていましたが、切れてはいなかった。それに、年齢を考えてくださいよ。僕のほうが若く、余裕もある。あなたが行くよりはいくらかはマシだ」
 バーナビーは自分の言葉を正論だ、と思う。誰が見ても、あの場では虎徹が動くよりも、バーナビーが動くほうがいい場面だった。もし虎徹が、能力が切れたことも構わず飛び込んでいたら、子どもどころか虎徹までも死んでいたかもしれない。
 想像して、ぞっとする。
 今ここにいる彼が、もう存在しなかったかもしれないのだ。
 それを回避できたのだと思えば、虎徹の怒りなどどうでもいいことに思えた。
「わかってるのか――お前、死んでたかもしれねぇんだぞ」
 そんなことをあなたが言うのか、とバーナビーはふいに笑いたくなる。虎徹にだけは言われたくない台詞だった。
 バーナビーは虎徹を睨み返した。、
「だから、何だっていうんです? あなただっていつもそうしてきたはずだ。そうやって、みんなを助けてきたんでしょう? ――僕は、ヒーローとして、当然のことをしただけです」
 バーナビーの返答に、虎徹は黙り込んだ。
 何か反論があると思っていただけに、予想外の虎徹の反応にバーナビーはどうしたらいいのかわからなくなる。
 虎徹の手が、バーナビーの襟元から離れた。
 突然解放されて、バーナビーはたたらを踏む。
「帰る」
 言い捨てて、虎徹は更衣室から出て行ってしまう。呼び止める暇も、そんな隙もまるでなかった。虎徹の顔も背中も、バーナビーを拒絶していた。
 音もなく扉が閉まり、バーナビーは一人更衣室に残される。虎徹がいなくなった途端、更衣室はがらんとして見えた。
 自分は間違っていない、とバーナビーはもう一度思う。
 今回ばかりは、自分のほうが正しい。
 そう思うのに、この見捨てられた感は何なのだろう。一人ぼっちになった気分になるのは何故なのだろう。理不尽だ、とバーナビーは思った。
 ……スーツを脱ぐために、斉藤のところへ戻らねばならない。それからバーナビーもシャワーを浴びて、家に帰り、食事をするのだ。そしてベッドに入って眠れば、朝が来る。朝になれば、虎徹も少しは冷静になっているかもしれない。
 やることは沢山思いついたし、今できることは何もないのだと優秀な頭脳は判断していたが、バーナビーは長い間、そこから一歩も動けなかった。



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