バーナビーの部屋は殺風景だ。散らかるのが嫌なので、できるだけ物は置かないように気をつけている。見える家具といえば部屋の中央に置かれた椅子だけで、部屋にいるときのバーナビーの定位置になっている。その椅子に座って、大画面でニュースを見たり、サイドテーブルに載せたパソコンでネットをしたりする。
だが今日は、テレビをつける気にも、ネットに接続する気にもなれなかった。バーナビーは椅子にぐたりと座り、ぼんやりと天井を見上げる。
夕食を食べなくては、と思う。毎日三食たべることは、出会ったばかりの頃の虎徹がバーナビーに言いつけたことだ。低血圧のバーナビーは、朝はあまりものが食べられないのだが、それでも何か口にいれるように努力するようになった。けれども、今は食欲がまるでわからない。
この部屋は、マーベリックがバーナビーに与えたもののひとつだ。バーナビーにとってはアポロンメディアに近く、便利だというだけの場所だったが、いつだったか虎徹がここから見える夜景が好きだと言った。だから、バーナビーも夜景が好きになった。その夜景を見ても、今は少しも気分は浮上しない。
怒っていた虎徹の顔を思い出せば、ますます気持ちが沈んだ。
今頃虎徹はどうしているだろう、と思った。
……今もまだ怒っているのだろうか。今日の一件で、バーナビーに失望しただろうか。明日には、気持ちは変わっているだろうか。それともずっと怒ったままなのだろうか。
いつもならば、虎徹のことならある程度予想がつく彼が何を考えて、どう動くのか。けれど今は、それが嘘のように何もわからなかった。
虎徹がずっと怒ったままならどうなるのだろう、とバーナビーは想像する。
ずっと喋ってもらえないのだろうか。もう笑いかけてくれないのだろうか。それとも相棒は解消だ、とでも言い出すだろうか。そのとき自分はどうするだろう。今更相棒解消だなんて、受け入れられることではなかったし、受け入れることも出来ない。言われて平静でいられる自信もない――。
そこまで考えて、バーナビーは頭を軽く左右に振った。
自分の思考が、極端から極端に走っているという自覚はあった。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
虎徹はそんな人ではない、バーナビーはよく知っている。きっと明日には、状況も虎徹の気持ちもきっと変わる。そうなれば、バーナビーにだってうつ手は見えてくるはずなのだ。
頭ではわかっているのに、ついつい思考が暗い方向へいってしまうのは、要するに不安だからだろう。
……ぐちゃぐちゃだな、と思う。
虎徹が絡むといつもこうだった。自分の気持ちさえわからなくなって持て余してしまう。
バーナビーはくしゃりと前髪をかきあげた。
誰かのことで、こんなふうになってしまうことにバーナビーは軽い絶望を覚える。
それでも、と思った。
何もなかったこの一年間よりも、今のほうがずっといいのだ。
一年間――虎徹と離れ、連絡すら取らずに過ごした期間、バーナビーはずっと空っぽだった。生きるべき自分の人生等見つからず、ただ空虚さだけを抱えて過ごした。何をしていいのかわからず、どこへ行っても何を見ても誰と会っても、心は少しも満たされなかった。
虎徹のことを考えなかったときはないし、連絡をとろうかと迷ったことも一度や二度ではない。バーナビーにとっては苦しい一年間だった。
あの一年に比べれば、今はずっと幸せだった。
少なくとも今のバーナビーの苦しさも、痛みも、全部虎徹がくれたものだ。ならば放棄などできるはずもなかった。
明日――虎徹はどんな顔で現れるのだろう。
バーナビーは考える。
いつも通りの顔で現れるのか、それとも怒った態度で現れるのか。
どちらにしても、とバーナビーは小さな溜息を落とした。
明日になればまた、虎徹に会えるのだ。もう二度と会えないわけでも、遠くにいってしまうわけでもない。そう思うと、心は少しだけ軽くなる。
明日になれば。
そう繰り返して、バーナビーは目を閉じた。
きっと、今夜は眠ることは出来ないのだろうなと予感する。朝がくるのが果てしなく遠く思えた。
ベッドに入ったものの一睡もすることなく朝を迎えたバーナビーは、目覚ましが鳴る前にベッドから起き出し、シャワーを浴びて朝食代わりにコーヒーを一杯だけ飲み、いつも通りに出社した。
パソコンの電源を入れ、ロイズに提出しなくてはならない書類の作成に取り掛かる。黙々と作業を進めていると、時間が過ぎるのはあっという間だった。
そして、いつも通りの始業ぎりぎりの時間に虎徹が現れる。
「おはよ……って」
虎徹がバーナビーを見て驚いた顔をして足を止めた。どうしてそんな顔をするのか不思議に思いながら、バーナビーは「おはようございます」と言った。
虎徹は暫くバーナビーの顔を見つめた後、呆れたように言う。
「ひでぇ顔色だな、おい」
そうなのだろうか、とバーナビーは思う。自分ではよくわからなかった。今朝鏡を見たはずだったが、記憶にない。
虎徹は、昨日のことなどなかったかのように、バーナビーの近くに来ると覗き込むようにする。
「目のしたの隈、すごいことになってるぞ」
「……眼鏡をしているから、わからないでしょう」
「いーや、わかるね。俺が気づくくらいだもん。今日は写真撮影なくてよかったな」
そう言って、虎徹はすとんと自分の椅子に座った。
虎徹はもう怒っているようには見えなかった。昨日のことは、終わったことになっているのかもしれない。……ほら、こんな人なのだ、と思う。バーナビーが一晩眠れなかったことなど、虎徹は想像もしないのだろう。
パソコンをつけるわけでもなく、かといって他の作業をするわけでもなく、虎徹はそのまま暫く静かになる。
バーナビーが何となくその様子を目で追っていると、やがて虎徹が小さく溜息を吐いて言った。
「……悪かったよ」
まるで拗ねた子どものようだった。
ちらり、と金色の目がバーナビーを見る。バーナビーが黙っていると、虎徹は口調を改めてもう一度繰り返した。聞こえなかった、と思われたのかもしれない。
「昨日は、俺が、悪かった」
反応できなかったのは、虎徹の言葉が頭の中に入ってこなかったからだ。虎徹に謝られたのだ、と気づいたのは少したってからだった。
「お前が正しいよ、バニー」
そんなことはわかっている、とバーナビーは思う。最初から、わかっていたのだ。
「……っ」
昨日の夜からずっと胸を塞いでいた塊が、虎徹のたった一言で消えてしまう。そのあっけなさに、バーナビーはしばらく呆然とする。
黙りこむバーナビーを他所に、虎徹は「でも」と続けて、びしりとバーナビーを指差した。
「次は、させねぇからな! ああいうことは!」
まるで子どものような動作と表情だった。
この人は、時折ガキ大将のようになる。
「大体、ああいう無茶をするのは俺、それを止めるのがお前だろうが」
などと勝手なことを言う虎徹に、バーナビーは呆れた。ようやく声が出るようになる。
「何ですかそれ」
「役割分担の話だよ。急にあんなことやられたら、びっくりするだろっ」
「いつそんな役割分担したんです? 記憶にないんですが」
「そりゃ痴呆だな、バニーちゃん」
「痴呆を心配しなきゃいけないのは虎徹さんでしょう。いつも色んなものをどこにやったか忘れて、困っている癖に」
「そ、それはそれ、これはこれだろ!」
うろたえる虎徹を見て、本当にもう彼が怒っていないのだとバーナビーは心の底から実感する。
まだ虎徹は何かぎゃあぎゃあ言っていたが、バーナビーは聞き流した。
触れることは出来ない。手を伸ばすことは出来ない。なのに、離れることはもっと出来ない。
先ほど虎徹は、もうあんなことはさせないとバーナビー宣言したけれど、これから何度だって似たような場面はあるだろうとバーナビーは思う。
虎徹がどれだけ止めても、同じだ。
「バニー?」
虎徹が不思議そうに名前を呼んだ。
バーナビーはじっと虎徹を見つめたまま呟くように言った。
「次、同じことがあったら僕はまたビルの中に飛び込みますよ。あなたが止めても、怒っても、何度だってそうします。……あなたが行くより遥かにマシだからです」
バーナビーはもう虎徹を、壊れかけたビルの中に飛び込ませることは出来ない。そんなことには耐えられない。
虎徹にわかってほしいわけではなかった。でも言わずにはいられなかった。
また怒るかと思った虎徹は、ただゆっくりと瞬いた。
虎徹の目が揺れ、一瞬口が開きかける。けれども結局虎徹は何も言わず、溜息を吐いた。
そして手を伸ばして、バーナビーの頭をぽんぽんと撫でた。子どもをあやす様に笑う。
「んじゃ次は、一緒に飛び込むことになるな」
等と虎徹があまりにあっさり言うので、バーナビーは子どものように泣きたくなった。
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